第十回 長井 淳
Quiet Nights Of Quiet Stars♪-星々に耳を傾けて 前編
アメリカ留学で目の当たりにした学生たちの姿勢
竹内 長井さんはピアニストをめざしていた頃もあったそうですね。
長井 はい。両親が尺八や三味線、お琴の師範をしており自宅で生徒さんに教えていて音楽が常にある家庭環境だったこともあり、ピアノは4歳ぐらいから始めました。5歳と6歳年上の姉と兄は、ピアノやチェロを習っていました。
竹内 どんなジャンルを弾かれるのですか?
長井 弾くのは主にクラッシックです。聴く方は幅広いジャンルに興味がありいろいろ聴いています。
竹内 将来なりたい職業として、ピアニストと同時に科学者も小さい頃から意識していたそうですね。科学の世界に惹かれ、研究者を意識するようになったきっかけがあったのですか?
長井 家族の影響があると思います。姉には生まれつき脳性麻痺があり、運動に関してハンディキャップがあります。姉が小学生の頃など、逆上がりや駆けっこなどをするとまわりの友だちとは明らかに運動能力が違うわけです。反対に、姉と1歳違いの兄は運動能力抜群でした。私は幼少期の頃にはすでに、この運動能力の違いは一体どこから来るのだろうとずっと考えていました。親に聞いてみると、「脳っていう所がちょっと違うんだよ」と。小学生の頃には、どうやったらそのような病気や障害を治せるのか、あるいはどうやったら違う能力を持つ人間同士が認め合える社会を作ることができるのかと、ぼんやりと考えていました。
竹内 長井さんにとって一番身近な存在である兄姉の違いをつぶさに見て、小さな頃から「何でだろう、どうしたら良くできるのだろう」とひとり考えていたのですね。
長井 そうですね。そして成長するにつれて、テレビ番組などを通して大学には脳や病気について研究をしている先生がいるのだと知りました。また医学という分野では、何か新しいことを発見するという作業も行われていると分かった。そこからぼんやりと、アカデミックな場所で研究が行われ、そこではゼロからイチを生み出しているのだと理解するようになりました。
竹内 将来はピアニストではなく科学者になろうと、具体的にかじを切ったのはいつ頃でしたか?
長井 科学者として生きていくという選択をしたのは、大学院生の頃だと思います。大学入学時から「脳を研究したい」という気持ちはあったので、脳神経科学分野の研究室がある学科を選択し、その研究室にも配属されたのですが、その頃は科学者として生きていくという覚悟はまだできていませんでした。大学院へ進学した際にインターンとしてアメリカに3カ月留学し、その経験が科学者としてのキャリアを選択した大きなターニングポイントでした。
竹内 アメリカでインターンとして過ごした時間は、日本の大学院での研究生活とは大きく違っていたのですか?
長井 違いましたね。まず、大学院生がものすごく主体的にそれぞれの研究をリードしていました。すでに科学者としての独立性や将来への展望を持ち、それに対するアプローチや哲学的な考え方がそれぞれ学生のなかにしっかりとあると感じました。
竹内 大学院生という立場は、日本ではまだ学生扱いだけれどもアメリカではもう研究者と見られている、ということですね。
長井 そうなんです。当時、私の周りでは、就職しなかった学生がなんとなしに修士課程や博士課程に進むケースが多かったのですが、アメリカではそういったあやふやな理由で進学する人は一人もいなかった。これには、高等教育システムやカリキュラムの違いが関係していると思います。アメリカでは大学院に進学すること自体がそもそも大変で、さらに進んで博士号を取得するのはもっと大変です。加えてアメリカでは、学位取得後のキャリア展望にかなり夢がある。待遇も良く、社会からの評価や期待も高い。そうなると、学生の覚悟も違えば目標も違うので必然的に日々研究への向き合い方も違ってくる。自分と同年代の学生たちが社会の期待を背負い、夢を持ってキャリアの実現に向けて日々過ごしている様子を目の当たりにした3カ月という時間が、自分の考え方を大きく変えました。
脇役と思われていたグリア細胞への注目
竹内 長井さんの研究対象は、グリア細胞というちょっと変わった細胞だそうですね。長い間、脳研究においては主流ではなかったとか。詳しく教えていただけますか。
長井 はい。私の研究室では、大多数の神経科学者が注目してきた神経細胞 “じゃない方” のグリア細胞が研究対象です。皆さんの多くが耳にしたことがある神経細胞(ニューロン)ではない、いわゆる非ニューロン細胞を総称してグリア細胞と呼んでいます。グリア細胞のなかでもアストロサイトという細胞に注目しています。グリア細胞の発見は実は古くて、ニューロンと同じ170年ほど前になります。グリアという名前はグルー(のり)が語源で、脳内で信号をやり取りする、いわば主役のニューロンの隙間をのりのように埋めることで、組織を物理的にサポートする脇役の細胞であると考えられてきました。しかし最近になって、グリア細胞はニューロンの活動に耳を澄ませ、反応して活動し、最終的には動物の行動あるいは疾患にもかなり大きな影響を与えているということが分かってきたのです。
竹内 未だ多くが解明されておらず、これからどんどん進展する可能性がある研究課題ということですね。
長井 そう、これからの分野です。それに加えて私の場合は、いわゆる主流な研究に対して第三者的な視点というか、ちょっと人とは違った角度から研究してみたいという単純な好奇心もあり、グリア細胞に軸足を置いて脳科学全体を見渡すというスタンスをとっています。
竹内 この20年ほどで「脳科学」「脳科学者」という言葉をよく耳にするようになり、テレビやニュースで研究内容も目にすることが増えましたが、グリア細胞については、つい最近までほとんど聞いたことがありませんでした。ところが急に、グリア細胞が重要だ、いや、むしろグリア細胞の方が重要なんだ、みたいな話まで聞くようになった。実際のところ世の中の脳研究者がグリア細胞に大事な何かがあるのかもしれないと、薄々感じ始めたのはいつ頃なのでしょうか?
長井 段階的にそうなってきたのだと思います。そもそもサイエンスにおいても、目に見えるものに対する信頼度がものすごく高い、という背景がある。神経科学においても然りで、ニューロンは1850年代にはすでに発見されていたにも関わらず、当時は脳内でニューロン同士が伝達している電気信号を測る技術がなかったので、そこから100年ぐらいは「ニューロンって何なんだ?」と研究者は試行錯誤していた。やっと1950年頃になって、軍事利用のためのレーダーやオシロスコープの開発とその発展のなかで、ついにニューロンの活動が計測できるようになった。つまり活動が目に見えるようになり、ニューロンを主役とした神経科学の研究が進んだわけです。同じ論理から1990年にグリア細胞の一種であるアストロサイトにおいて、細胞間の情報伝達のカギであるカルシウムイオンのシグナルを可視化できるようになり、グリア細胞の活動を目で見て観察できるようになったことが、研究者たちがグリア細胞の重要な働きに気が付き始めた一つの大きな契機となったと思います。
竹内 まさにSeeing is believingですね。ミクロの世界で一体なにが起こっているのか、観察技術の進歩なくして大きな進展は難しいと想像できます。
長井 グリア研究を推し進めたもう一つの技術革新があります。こちらもまずはニューロンを対象とした研究のなかで進んだのですが、脳内に存在する多種多様な細胞種を分けて観察したり、特定のニューロンの活動を人為的に操作したりできる遺伝学的手法が開発されました。ニューロンの活動を操作することでそれぞれのニューロンが持つ機能、行動との関連性までを調べることができます。こうした遺伝学の技術をグリア細胞にも使用し、応用できるのではないかという認識が広がってきたのが2010年以降です。ですから、この10年ほどで急速にグリア細胞の機能に迫ることができるようになってきたと言えます。
あれもこれも、グリア細胞の多様な役割
竹内 ほんの10年ほど前から本格的に進んできたグリア細胞研究は、本当にこれからの分野なのですね。それだけでワクワクします。ちなみにグリア細胞は総称ということですが、いくつかの種類があるのですか?
長井 グリア細胞は大きく分けると三種類あります。一つ目が、オリゴデンドロサイトと呼ばれる細胞で、ニューロンの細胞体から伸びる軸索に巻き付きニューロン内を通過する信号の伝達を100倍以上も速くする役割を担っています。二つ目がミクログリアという細胞で、侵入してきた異物を食べたり(貪食)、不要な細胞やたんぱく質を食べて掃除する役割を担っています。マクロファージという免疫系細胞の名前を聞いたことあるかもしれません。脳内で働くマクロファージがミクログリアだと考えてください。そして三つ目が、私のラボが特に注目しているアストロサイトです。「星のような細胞」という意味なのですが、中枢神経系と呼ばれる脳と脊髄、それ以外の末梢神経系に広く分布しています。つまり体内でアストロサイトが存在しない場所はないともいえます。アストロサイトから出ている突起は、周囲の血管やニューロンの細胞体や、ニューロン同士が接合するシナプスと呼ばれる構造に近接していて、それらの活動をモニターしながら、必要であれば情報や物質を供給する役割を果たしています。
竹内 一番はじめに出てきたオリゴデンドロサイトは、どういう仕組みでニューロン内の電気信号伝達を加速させるのですか?
長井 実は加速するのではなく、特急列車のように飛び飛びに進むので速くなる、といったイメージです。細胞体の突起で受け取られた信号は軸索を通り、その先端で次のニューロンに信号を伝達します。軸索は長く伸びているので、この軸索を電気が伝わる速度がニューロンの信号伝達速度に大きく影響しますよね。オリゴデンドロサイトの突起の先端は広いシート状になっていて軸索に巻きつき、ミエリンと呼ばれる構造体を作っています。このミエリンは軸索の全長を覆っているのではなく、間隔を空けて存在している。つまり軸索一つに対して、ミエリンのある場所とない場所がある。ミエリンはものすごく脂質が豊富な物質でできた電気を通さない絶縁体なので、電気信号はミエリンがない場所だけをジャンプして進むといった具合です。
竹内 ということはニューロンの信号が特急ではなく、各停でゆっくり進む場合もあるのですか?
長井 あります。実感できる例は痛みの知覚です。足の小指をタンスの角にバンッとぶつけたときに、まず「痛いっ」と反射的に感じたあとに、じわっとくる痛み、あるじゃないですか。
竹内 あの嫌な感じの痛みですね。
長井 コンマ1秒ぐらい遅れてくるあの痛み。実は脊髄のニューロンには、ミエリンを持つものと全く持たないものの両方が存在します。ミエリンを持つ伝達速度が速いニューロンが先に痛みの知覚をもたらし、それに遅れてミエリンを持たない伝達速度の遅いニューロンが信号を伝達するので、知覚に時間差が出るのです。
竹内 最初にすごく痛いのが来て、わざわざもう一度じわっ~と来る痛み……。あれには意味があるのですかね。
長井 例えば、火など生命に危険を及ぼすような刺激に対しては、ミエリンを持つニューロンによる素早い知覚により反射的に反応することは、生命維持にとても重要です。遅い反応の役割はまだ科学的に解明されていませんので推測にすぎませんが、わざとゆっくりとシグナルを脳に送りその知覚に対して感情や解釈などの意味付けを行うためとも考えられます。これは嫌悪すべき刺激なのか、そうではないのかを、過去の経験を参照したり脳内のほかのシグナルと統合したりして、将来参照するための記憶や学習へとつなげていく。グリア細胞が持っている時間的スケールは、ニューロンが伝達する電気信号のスケールと比べると10倍から1000倍ぐらいゆっくりなのです。
竹内 遅い?
長井 そう、スローだというところがとても大事なポイントなんです。遅さという特性が電気的に速く伝わるニューロンとは異なるところで、それがどのような機能を生み出しているのかを見つけたいと思っています。
竹内 ゆったりと情報をやり取りする意味……。とても面白いですね。2番目のミクログリアについても、もう少し詳しく教えてください。
長井 ミクログリアには働きがいくつかあります。例えば全身で働く免疫細胞と同じように炎症に反応して、その炎症を促進したり抑制したりしています。それから、免疫細胞には死んだ細胞や病気の元となるような不要な細胞を丸ごと食べちゃって消化する貪食という作用があるのですが、非常に面白いことにミクログリアの場合は細胞の一部分だけ食べたりするんです。
竹内 一部分だけ食べる⁉
長井 そう。というのは、大人の脳では損傷した際などに神経細胞が新たに再生する場所が非常に限られているため、不要だからといって一部が損傷した神経細胞を全部食べてしまうと取り返しのつかないことになってしまう。だからシナプスの一部分だけを食べたり、シナプスの周辺にあるコラーゲンとか、ヒアルロン酸とかを食べて、神経細胞間で情報が伝えられるシナプス伝達のふるまいを変えたりする。
竹内 脳内のSDGsですね!
長井 簡単に言うとミクログリアにはハード面に変化をもたらす能力がある。突起の形を細かく変えさせたり、あるいは破損した細胞の残骸を丸ごと食べて脳組織の構造を大きく変えたり、炎症を抑えたり、促進したりする。語りきれないほどさまざまな機能を持っているのですが、これらの機能がどのように必要に応じて切り替わっているのかは、まだ謎なのです。
竹内 グリア細胞が持っている能力が広すぎて、脇役と呼ばれる域をすでに出ている気がしてきました。先ほどおっしゃっていましたが、アストロサイトの名前の由来は“アストロ=星”という意味ですよね?
長井 アストロサイトが発見された当時の染色技術では、この細胞は星のような形に見えたそうです。星といっても絵文字やシンボルで使うような星型みたいな感じです。しかし近年の染色法で観察してみると、実は細胞から出ている突起は何千本とあり、その先端は電子顕微鏡でやっと見えるようなかなり細いもので、星というよりは雲、あるいはスポンジと表現した方が近いですね。
竹内 アストロサイトの機能については分かってきているのですか?
長井 大きく別けると二つあります。一つは神経活動、あるいはシナプスの伝達をコントロールしている。さきほどのオリゴデンドロサイトとはまた違った様式で伝達の速度を速くしたり、遅くしたりしています。もう一つは、血管から栄養や代謝物などを脳内に入れるか、入れないのかの門番をしている。入れた後には、それをアストロサイトが内部で代謝、つまりニューロンが栄養として摂取しやすい形にいわば調理して渡す、といったことをしています。
Profile
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今夜の研究者
長井 淳(ながい じゅん)
理化学研究所 脳神経科学研究センターにてグリア-神経回路動態研究チームを率いる。
早稲田中学・高校から早稲田大学へ進学し博士号取得。
2016年よりカリフォルニア大学ロサンゼルス校にてポスドク研究員。2020年7月より現職。特技はピアノ演奏。最近は、自由な創意工夫によって多種多様になり得るビールとラーメンの世界にはまっている。
X(Twitter): @JunNagaiLab
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Barのマスター
竹内 薫
猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
X(Twitter): @7takeuchi7
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