第九回 長井 淳 Quiet Nights Of Quiet Stars♪-星々に耳を傾けて

第十回 長井 淳
Quiet Nights Of Quiet Stars♪-星々に耳を傾けて 後編

グリア細胞が人ならではの脳機能を生み出す?


竹内 グリア細胞それぞれの特徴と役割がだいたい分かりました。では、長井さんご自身がチャレンジしているのは具体的にはどのようなことでしょうか?


長井 いろいろ進めているのでどれからお話しましょうか……。私の研究室における究極的な問いは、「なぜ私たちの脳にはアストロサイトが必要なのか」ということです。というのも古代生物にはグリア細胞は存在しない、あるいは数が非常に少ないのです。例えば原始的な生物である線虫では体内全ての細胞の数と分布やある程度の機能が分かっていて、脳に該当する神経系にある302個のニューロンもマップされているのですが、そのうちアストロサイトは4個しかないんです。


竹内 4個⁉


長井 そう、4個です。しかし、ハエ、魚、鳥、カエル、マウス、サル、ヒトと進化的に哺乳類、霊長類に近づくにつれ、グリアの数はどんどん増えていく。ヒトの場合は、ニューロン860億個に対し、グリア細胞の数はその2倍とか10倍とかと言われています。つまりグリア細胞が哺乳類、霊長類の高次な脳機能に何かしらの役割を果たしているのではないかという仮説につながります。実際、2013年には、ヒトのアストロサイトを培養してマウスの脳に移植すると、マウスの記憶学習能力が向上したという研究が報告されました。


竹内 すごい、本当ですか! ヒトのアストロサイトをマウスに移植して記憶力が高まったと。それでは、グリア細胞が多く存在することで、なぜ記憶力が高まるのでしょうか? アストロサイトが増えることで、一体どのような変化がもたらされたのですか?


長井 非常に説明が難しいところなのですが、まず、記憶の基盤から説明させてください。記憶は、ニューロンとニューロンのつなぎ目であるシナプスの強度が変わることで保管されると考えられています。1つのニューロンに1000~10000個のシナプスがあるといわれていて、ヒト脳全体で計算すると何兆個というシナプスが存在します。しかし、そのシナプス全てがいつも活動して信号伝達を行っているわけではありません。どこかで強弱をつけている。記憶とは、特定の神経回路の情報伝達強度が高まることで起こるのです。先ほどアストロサイトはシナプス伝達の強弱を調節しているとお話しましたが、その調節の様式がヒトとマウスでは違うのではないかと考えられます。



竹内 一体どう違うのでしょうか?


長井 ヒト脳ではマウス脳に比べてアストロサイトの種類も多いのです。先ほどグリア細胞の伝達はニューロンに比べてかなり遅いと説明しましたが、グリア細胞の種類が豊富であれば、その中にも遅いものがあったり速いものがあったりとシグナル伝達に多様性が生まれます。また、アストロサイトが持つ分子の種類もヒトとマウスで違っていたり、酸化ストレスに対する防御力がヒトのアストロサイトの方が高かったりと、さまざまな違いがあります。こうした違いが脳の働きに何をもたらしているかはまだ解明されていませんが、ヒトに特有な脳機能がこうした違いに起因している可能性はあると思います。


竹内 グリア細胞の数や多様性、ニューロンの伝達速度などの違いは生物にとってどんな違いを生むのでしょうか?


長井 そこなんです! まだ全然わかっていません。アストロサイトをはじめとするグリア細胞が複雑な脳回路にどのように組み込まれ、どうやって学習効率や、記憶の貯蔵、あるいは想起といったヒトならではの高次機能につながっているのか。謎を解くにはまだまだ研究を必要とする分野です。私の場合は、ヒトのアストロサイトならではの特徴や、ヒトではどんな分子によってマウスとは異なる脳機能を可能にしているのか、さらにヒトの脳機能を今よりも向上していけるのか、ということに強い興味があります。


竹内 人工知能しかり、人間が開発したデバイスの処理速度が格段に速くなるなどテクノロジーはどんどん進化しています。われわれ人間の脳だって、もう少し人為的な介入も含め、スケールアップというか更新していかないと解決しない問題もあったり、サバイバルという意味でも生物として厳しくなる局面が訪れるのもそう遠くはないという気もします。いや、もうそのような状態に到達しているのかもしれないですね。



長井 そうですね。潜在能力の拡張、あるいは限界突破という言葉がありますが、その可能性を見据えた研究って非常に夢がありますよね。人間が生物学的に持ち合わせた脳だけで物事を進めるのでなく、外部メモリーや人工知能のような外部に拡張させた認知エリアを上手く使えば、さらなる脳の潜在能力を引き出したり、あるいはタスクを分散させて、人間が本当に注力すべき課題やほかの目的に能力を向けることができる。または、個々人の脳をつなげて補い合ったり、それぞれの脳の機能を拡張しようという試みは非常に面白いと思います。私のなかでは、その方向性の取り組みを脳の細胞レベルでまでスケールを落として考えてみています。例えば原始的なシステムを持つ線虫では、302個の神経系ニューロンの迅速な電気信号の情報伝達でこなしているけれど、高等動物になるにつれグリア細胞が活躍しはじめる。ゆるっと遅めに電気信号を聞いて、「ねえニューロン、今はこんなことやんなくていいよ」とか、「今はこういうことやったほうがいいよ」って教えてあげているグリア細胞にこそ、脳機能の拡張を助ける重要なファクターとしての可能性が高いレベルであるのではないかと思えるんですね。


竹内 今までのお話で、グリア細胞を知ることが脳機構の全体像をつかむための残されたフロンティアであり、かつ人間のあり方の未来をデザインするような方向にもつながりそうだと実感しました。


長井 そうですね。私の研究室はグリアに軸足を置きつつ脳回路全体の理解をめざしているわけですが、ものすごく集約して言ってしまうと、私は「脳を柔らかくする」ための研究をしたいんですね。電気的な回路としてハードワイヤードにつながっているニューロンの研究をもっと進めて、そこでのニューロン間の電気的なつながりを変えたり、ニューロンとその信号の周辺に存在するグリア細胞をコントロールすることによって、つながれた回路を一度ほぐして脳全体を柔軟なものにしてみる。そうすることで、例えば何歳になっても新しいことを習得できるとか、過去に経験したトラウマ的な記憶を断ち切って新しい未来を見据える、といったことが本当に実現できるといいなと思うのです。それを理論や仮説として示すだけではなく、何かしら目で見えるような形で社会に示したい、というのが大きな目標です。


好奇心の先で巡り合う偶然を楽しむ


竹内 長井さんの研究室のウェブサイトを覗いてみたのですが、とてもスタイリッシュですね。夜空に広がる星々を見つめている人のイメージが目を引きます。


長井 その星々の画像の上に、『Astrocytes: Star Cells in Our Inner Universes』というメッセージを載せました。“Inner universe” つまりわれわれの脳の中に浮かぶ、未だ理解のできていないミステリアスな、あるいは希望に満ちあふれたLittle cosmos(小さな宇宙)にアストロサイトを見立てています。私のラボの研究はアストロサイト、グリア細胞を入口に、われわれ人間という生命体のアイデンティティを探しているともいえる、そんなメッセージです。


竹内 サイエンスの本質であろう未開の地を開拓するというワクワクした気持ちが伝わりますね。長井さんはRIKEN CBSのなかでも若いチームリーダーの一人だと思いますが、長井さんが感じる若き研究者、チームリーダーとしての強みはどんなことだと思いますか?


長井 これまで自分が研究者としてやってきた期間が、まだたかだか10余年だという自覚を持ちつつ、これから研究に従事できる時間が40年弱はあるという希望的な観測というか……。もちろん約束された時間ではありませんが、楽観的にとらえてそのくらいの時間が先にあると考えると、ある意味、失敗を恐れずに一か八か博打を打てるという点は研究をする上での大きな強みだなと思います。



竹内 1980~1990年代生まれの長井さんたちの世代はミレニアル世代と呼ばれていて、デジタル・ネイティブだったり、社会への関心が高かったり、それまでの世代と価値観が大きく異なっていると言われていますよね。サイエンスにおいて、これまでの世代とは意識や価値観が違うなと感じたようなことはありますか?


長井 ミレニアル世代といっても自分の感覚としてはそれより前の世代寄りでして……どちらかといえば私のラボにこれから入ってくる学生やポスドク研究員たち、いわゆるZ世代の方が新しい意識や価値観を持っているのではないでしょうか。この世代はデジタル・ネイティブかつソーシャルネットワーク・ネイティブであるところが大きく異なる点で、思考や言動にも違いを感じます。たとえば私の場合は、SNSで発信するのを怖いなと感じることがありますが、Z世代はためらいなくできますよね。自分の言動が全世界に見られても大丈夫という思い切りの良さがあります。発信するだけではなく、入ってくる情報への態度も違うなと感じます。最近は非常に膨大な情報が簡単に手に入ります。自分が実際に経験した一次情報、誰かから聞いた二次情報、出どころの不明な三次情報とが大量に混在するなかで、ちゃんと一次情報とほかを区別しながら取捨選択し価値を見いだすといった能力は、私が学生だった頃と全く比べものにならないくらい高くて、すでに自分の哲学を持っていると思います。こういう世代がチャレンジングなサイエンスへどんどん入っていける状況があるとしたら、脳神経科学はますます世界的規模で発展していくだろうな、と期待しかないですね。


竹内 なるほど。長井さんが目指している理想の研究者とは、どんなクオリティーを持つ人ですか?


長井 なかなか難しい質問ですね。私が憧れる研究者像はいくつかあります。一つ目は、社会が抱える課題を本当の意味で解決する、あるいは解決につながる理論を示すことができる研究者。そういう人は、そもそもクエスチョンに対するアプローチが優れているし、適切な人材を巻き込んでいくコミュニケーション力だったり、コミュニティーを形成するスキルだったり、その人自身のキャラクターだったり、そういうもの全てが優れている。二つ目は、自分の好奇心をもとに突き詰めることができる人、その過程で偶然の発見を見逃さない人、あるいはそういう偶然に巡り合える幸運を持つ人ですね。私も偶然を見逃さないように、実験から得られる生データをしっかり観察するということは常に意識しています。



竹内 偶然の発見を手に入れる、セレンディピティとは脳科学的にはどういうものなんですかね。


長井 脳研究に限らず、科学においては仮説を立てて検証するというのが一つのやり方ですよね。もちろん立てた仮説に対してイエスかノーかを知りたいのですが、結果はイエスでもノーでもない、はっきりしないということもある。それをうやむやにせず、違った角度から見つめてみると、実はそこに仮説を立てた時には思いもよらなかった新しい事実があったりする。つまりそれがセレンディピティです。一方で、科学研究には違ったアプローチもあるんです。仮説フリー、仮説を立てないでやるという方法です。実はこれが一番面白くて、私が一番好きな方法でもあります。一応、科学研究の作法として仮説らしきものは立てますが、それにとらわれ過ぎてしまうのは健康的ではないと感じています。実験を設計しながらラボの研究員と「結果はこうなっても面白いし、こうなっても面白いよね」と話すのはすごく好きですね。


竹内 仮説フリーですか。どうなるかは分からないけれど、何かありそうだからやってみよう、みたいな感じですか。



長井 そうです。本当に好奇心のみで出たとこ勝負ってやつです。それが本来の科学の起源であると思います。


竹内 ペニシリンだって偶然の発見ですし、がん免疫治療薬開発でノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑先生も「発見はかなり偶然。私はがん学者ではないし、がんの薬を探していたわけではない」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。


長井 何につながるかは分からないけれど、好奇心がうずいてやっちゃうような研究をどんどん増やしていくことが、実は科学全体から社会への貢献を増やすことにつながると思います。研究は上手くいかないことの方が多いのですが、そもそも「上手くいった」「上手くいかなかった」をどう評価するのかという問題もある。はっきりした答えがあるものだけを最初から狙って研究するばかりでは、サイエンスはどんどんしぼんでしまう。仮説フリーに実験できている時点で上手く行っていると捉えて、それを楽しんで研究できる若手研究者がもっと増えるといいなと思っています。



竹内 最後に、長井さんの研究人生における究極のゴールとは?


長井 自分の名前より自分の発見が有名になること、そしてそれを1秒で言えることですね。例えば「iPS」って1秒かからずに言えますよね。山中伸弥先生がiPS細胞を発見するよりも50年昔にiPSって言葉を聞いても「何それ?」ってなりますが、再生医療の可能性やiPS細胞がもたらす社会への貢献を多くの人が知ることになった今では、iPSと聞けばその意味をぱっとイメージできるぐらいに浸透しています。


竹内 本当の意味で社会に貢献している研究成果なのだと分かりますね。研究者として長井さんが目指す指標の一つですね。


長井 もう一つの指標としているのが、本庶佑先生がノーベル賞の会見でおっしゃっていた言葉です。本庶先生が趣味のゴルフでラウンドされていた際に、知らない方が声を掛けてきてこう言ったそうです。「私はがんで病床にいたのですが、先生が作った薬のおかげで今はこうやって元気にゴルフができるようになりました」と。ノーベル賞を受賞した有名な本庶佑先生だから声を掛けたのではなく、彼が研究の末に社会に届けた薬が効果を発揮して、その人の人生を変えたから声を掛けてきてくれたわけです。そんなことがもし私の身にも起こったならば、それは本当に心から嬉しくて、研究者冥利に尽きると思うんです。私はグリア細胞の研究を通して、ヒトとは何かという人間の生命体としてのアイデンティティをこれからも探求していきます。もしその先に人間の社会に対して実際的な貢献ができたなら、これ以上の喜びはありません。




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Profile

  • 今夜の研究者

    長井 淳(ながい じゅん)
    理化学研究所 脳神経科学研究センターにてグリア-神経回路動態研究チームを率いる。
    早稲田中学・高校から早稲田大学へ進学し博士号取得。
    2016年よりカリフォルニア大学ロサンゼルス校にてポスドク研究員。2020年7月より現職。特技はピアノ演奏。最近は、自由な創意工夫によって多種多様になり得るビールとラーメンの世界にはまっている。
    X(Twitter): @JunNagaiLab
    関連インタビュー:Enjoy! Piano ピアノで拡がる、豊かなミライ

  • Barのマスター

    竹内 薫
    猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
    X(Twitter): @7takeuchi7


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