第八回 Thomas McHugh Memories Are Made Of This♪-記憶を作る脳の仕組みを探して

第八回 Thomas McHugh
Memories Are Made Of This♪-記憶を作る脳の仕組みを探して 前編

きっかけは仲良しだった兄の存在


竹内 マックヒューさんはアメリカのシカゴ生まれ、MIT(マサチューセッツ工科大学)で博士号取得後、同じくMITでのポスドクを経て、日本で研究チームを立ち上げたそうですね。アメリカでの幼少期などに、研究者、科学者になりたいと思ったきっかけは、何かあったのでしょうか?


マックヒュー 授業で習う科学と数学は得意だったので、小さい頃からサイエンティストに対する憧れみたいな気持ちはありました。でもその頃は、サイエンティストという職業がどんなものなのか、どんな勉強やトレーニングが必要なのか、キャリアとしてはどのような選択肢があるのかなどは、全然分かってはいませんでした。ただなんとなく「サイエンティストっていいな」と感じていました。


竹内 小さい頃から科学者っていいなとは感じていたのですね。科学といっても学校ではたくさんのことを勉強すると思いますが、どんな分野に関心が高かったのですか?


マックヒュー 特に生物学に強い興味がありました。9年生の時(日本では中学3年生相当)、はじめて受けた専門的な生物学の授業にとても感銘を受けたんです。それに先生も素晴らしかった。簡単だけれども生徒たちが自分で手を動かすような実験を通して、生物とその命の意味を考えるような授業をしてくれました。



竹内 マックヒューさんのご実家は大家族で、9人の兄弟姉妹がいらっしゃると聞きました。何番目のお子さんなのですか?


マックヒュー 私は9番目、一番末っ子です。


竹内 8人の兄姉を持つ末っ子、エピソードがたくさんありそうですね! ご自身の人生や特にキャリアについて、お兄さん、お姉さんたちからの影響はありますか?


マックヒュー はい、とても影響を受けています。特に6年ほど前に他界した一番上の兄、パトリックの影響が大きいですね。彼はダウン症候群でした。ダウン症は別名21トリソミーと呼ばれるように、21番染色体のコピーが通常2本のところ3本ある先天性疾患です。パトリックを除く7人の兄姉たちは進学をきっかけに家から出て自立していきましたが、兄はずっと実家で暮らしていました。私も大学に進学するまで実家暮らしでしたので、一緒に過ごした時間が長くてとても仲が良かった。私がそもそも生命の成り立ちや生物学に興味を持つきっかけとなったのも、彼の存在だと思います。


竹内 一番仲の良いお兄さんが、少なからずマックヒューさんの人生やキャリアに影響を与えたのですね。ダウン症候群は心身の発達が緩やかであり、健康面に関しては、合併症をおこす確率が比較的高い傾向があると聞きます。


マックヒュー 兄の場合は、生後1~2週間以上は生きられないだろうと医者に言われたのに、60歳まで生きることができました。「命の長さって何で決まるんだろう」と不思議に思いましたね。また一般に、ダウン症は若い母親からよりも比較的高齢の母親から生まれる確率が高いことが知られています。でも兄は母にとって最初の子どもで私は最後の子ども、つまり私の方が母にとっては比較的高齢になってからの子どもですから、この傾向があてはまらない比較的稀なケースです。ただ稀ではあるとはいえ、私の母と兄には起こったわけです。つまりこれはある確率で誰にでも起こり得る先天的な染色体の異常であり、しかも染色体の一つのコピーが増えるというだけで発達の違いが生じたり症状を起こしたりするのはどうしてなのだろうと、ずっと疑問に感じていました。


一人の患者がもたらした記憶研究の黎明


竹内 生命や生物の不思議についてを、普段の生活のなかで感じたり考えたりして過ごした子ども時代を経て進学し、サイエンスの道に進むことになった。そして博士課程時代からずっと記憶について研究をしていると伺いました。面白そうです。


マックヒュー 実は記憶の仕組みは謎だらけなんです。記憶がどのようにして脳の中に書き込まれるのか、書き込まれた記憶はどうやって長い間保存されるのか、保存された記憶を私たちはどうやって取り出して想起しているのか。これらは記憶に関する大きな問いです。私の研究室ではその問いをもう少し分類して、記憶に関係するニューロン(神経細胞)が織りなす回路がどうなっているのか、そして神経回路の活動パターンが存在するのですが、その生理学的パターンがさまざまな記憶の過程とどのような関係にあるのかを探る研究を進めています。当たり前にも思える「自分は何者か」という感覚やアイデンティティ、自分が自分であるという認識は、過去から現在までの私のなかの記憶によって形作られている。ですから記憶は非常に重要な脳の機能の一つと言えますよね。そして記憶に関する研究は近年急速に進んでいますが、まだまだ分からないことだらけです。記憶の生理学的な仕組みを解明するのには何年もかかるだろうな……と学生時代から実感してはいましたが、まったくその通りでした。



竹内 なるほど。記憶ってそれはもう当たり前の脳機能ですから、その仕組みが実はあまり分かっていないって、結構衝撃的な事実だと思うんです。アルツハイマー病など脳疾患がある場合は別ですが、過去の思い出や学んだこと、ある場所へたどり着くための空間地図なんかはちゃんと脳に保存していて、それを必要な時に思い出したりするのも自由自在にやっている気がしますし。


マックヒュー 実は記憶研究を前進させるうえでの大きな転換期となった出来事はごく最近のことなんです。記憶研究だけでなく、脳神経科学の発展に貢献した有名な患者さんがいます。かつてはイニシャルでHM(エイチ・エム)と呼ばれていましたが、今ではHenry Molaison(ヘンリー・モレゾン)と氏名が公表されています。彼は1926年に生まれ 2008年に亡くなりました。モレゾン氏は子どもの頃の自転車事故の後遺症として、てんかんを発症し、その症状はかなり重く、当時の治療や薬では治癒が難しかった。彼のてんかん発作は頻繁に起こり日常生活に支障が出たため、担当医たちは外科的アプローチを試みることにしたんです。それが1953年のことです。当時はすでに、てんかん発作は海馬の活動から始まることは知られていました。そこで医者たちは「海馬とその周辺の脳部位を物理的に取り除けば、発作は起こらなくなるかもしれない」と考えた。



竹内 例えばがんの治療の場合、悪い細胞を取り除いてしまおう、という考えと同じですね。


マックヒュー そうです。結果として、「発作を取り除く」という目的において手術は成功しました。彼のてんかんは本当に寛解した。ところが予期していなかった大きな代償がついてきたんです。彼は術後、新しい記憶を形成する能力をまったくもって失ってしまった、つまり重度の健忘症になってしまいました。この事例こそが「海馬が記憶にとって重要な役目を果たしている」ということを人類に示した最初の手がかりとなり、記憶研究に大きな知見をもたらすことになったのです。


竹内 特定の脳部位を取り除いてみて、はじめてその部位が担っていた役割が分かった、ということですね。おっしゃるように手術が行われたのが1950年代ということはそこまで大昔の話ではない、最近のことですね。


マックヒュー 脳に関する探求はそれこそギリシャ時代から始まっていますが、本当の意味で研究が進んだのはごく最近です。このモレゾン氏が教えてくれたことを皮切りに、記憶のみでなく、脳卒中などの非外科的な脳の損傷がもたらすさまざまな種類の脳機能障害に関する研究も行われました。また、マウスなどのモデル動物を使って海馬の働きを詳細に調べる研究も進みました。特にこの20年ほどで研究技術も革新的に進歩し、モデル動物の脳内の生理学的現象を観察したり、研究者などが立てた仮説を実際に生体内で検証したりできるようになってきました。その結果、海馬はさまざまな記憶のうち、少なくとも「エピソード記憶」と呼ばれる種類の記憶が新しく形成されるためには必要だ、ということが明らかになりました。それには海馬が完璧な状態であることが必要なのです。これは絶対的な要件ですね。


竹内 エピソード記憶とは何ですか?



マックヒュー いつどこで、何をした、というような記憶です。過去に体験したことの記憶はだいたいこのエピソード記憶に当てはまります。


竹内 ということは海馬を失うと、例えば今こうやってマックヒューさんと会話をしているということ自体も記憶しておけない、ということですか?


マックヒュー その通りです。モレゾン氏の場合は、ほかの種類の記憶はしっかり機能していました。心理学者のBrenda Milner(ブレンダ・ミルナー)とSuzanne Corkin(スザンヌ・コーキン)は50年の長きにわたりモレゾン氏について研究しました(参照:「ぼくは物覚えが悪い: 健忘症患者H・Mの生涯」)。彼女らはさまざまな種類の記憶に関する課題を術後のモレゾン氏に行ってもらい、記録していきました。モレゾン氏は研究室にやってきて熱心に課題に取り組んだそうです。例えば「赤→青→緑→赤→青」と決められた順にさまざまな色のブロックを触るような課題に対しては、モレゾン氏は問題なくできました。このような記憶は手続き記憶と呼びますが、このタイプの記憶には海馬は必要ないわけです。ところが翌日、モレゾン氏に「この課題を今までにやったことがありますか?」と尋ねると、「いや、やったことがない」と答えるのです。実際に課題をやってみると、前日に一度行っているため上達はしているのですが、課題を一通りやったということをまったく覚えていない。ほかにも直前に見た画像から単語を完成させるような短期記憶を必要とする課題も問題なくできたし、過去に学んだ運動の記憶も残っていた。つまり彼の脳の中では、運動記憶、手続き記憶、短期記憶に関しては完全に機能していたのですが、「それを過去にやったことがあるか」というようなエピソード記憶だけは保存されていなかった、または想起することができなかったのです。


記憶の種類は実にさまざま


竹内 一口に記憶といっても種類はさまざまで、海馬に依存する記憶としない記憶がある、と。複雑さがよく分かりますね。ヒトの記憶は特に複雑そうですが、テントウムシやカブトムシみたいな小さな虫の場合はどうなのでしょうか? 


マックヒュー 昆虫みたいにシンプルな構造を持つ生物の場合でも、ちゃんと記憶できますよ。昆虫は実はとても記憶力がよく、例えばある特定の体験と匂いを結びつけるような記憶と行動に関する研究を、昆虫をモデルとして進めているラボが理研CBSにもあります。私の研究室ではヒトのエピソード記憶の仕組みを研究テーマとしているので、ヒトにより近い動物モデルとして哺乳類であるマウスを使っています。


竹内 なるほど。記憶の種類によって研究する動物も違ってくるのですね。そのなかでもマックヒューさんはエピソード記憶に注目して研究されている。


マックヒュー はい、私の研究室ではエピソード記憶、ちょっと難しい言葉で言うと陳述記憶などと呼ばれる記憶に焦点を当てています。つまり人間でいえば言葉で説明できる記憶です。いつ、どこで、誰とパーティーをしたというような、人生のなかで起こる出来事の記憶です。こうした記憶は私たち自身をかたちづくるもの、私たちの存在を定義するものですよね。しかしこれは、記憶のなかの一つの種類にすぎません。例えば、あなたがテニスをしてフォアハンドをマスターしたとします。フォアハンドの動き、これは運動記憶で陳述記憶ではありません。練習と反復によって達成される記憶なので、普通は「完璧なフォアハンドを習得した日のことを覚えている」ということはない。でも、例えばテニスのレッスンがあった日に、たまたま親友とレストランで食事をして、その親友が結婚するというニュースを聞いた、というような出来事が重なれば、それはエピソード記憶として残るわけです。


竹内 例えば記憶に大切な海馬が機能しなくなった場合、バックアップというか、記憶の機能を引き継ぐことのできるほかの脳部位はないのでしょうか?



マックヒュー 新しいエピソード記憶の形成という点では、答えはノーのようです。例えばイギリス在住のClive Wearing(クライブ・ウェアリング)という男性は、ウイルス感染が原因である種の脳炎を患い海馬だけに損傷を負いましたが、モレゾン氏とほとんど同じ結果になりました。やはり新しい記憶を形成することができないのです。


海馬が記憶にインデックスをつけている


竹内 結局、海馬は何をしているといえるのでしょうか?


マックヒュー 海馬には、視覚や聴覚、嗅覚や体性感覚といった、あらゆる知覚情報が入ってきます。こうした情報が入ってくる段階においては、何を記憶しておく必要があるかは分かりません。だから海馬では、特定の出来事や経験の詳細な情報に索引をつけて、ほかの情報と結びつけられるようにしているのです。あらゆるものを、あらゆるものと結びつけて、私たちが記憶と呼ぶ表現に情報をまとめているのです。


竹内 書棚や大量の書類などにインデックスをつける、といったイメージですかね。



マックヒュー まさにそうです。今の若い人たちは、図書館で蔵書カタログからお目当ての本がある棚を探すなんてしないかもしれませんが、竹内さんと私の世代では図書館では蔵書カタログから本の索引番号を調べて本を見つけましたよね。この索引をつける作業こそが海馬が行っていることです。ただ、記憶が形成されてからある一定の時間が経っていれば、海馬が損傷を受けたとしても記憶として残ります。私たちが重要だと判断した記憶は統合され、海馬から独立して保存されるのです。前頭皮質の一部、マウスでは前帯状皮質(ACC)と呼ばれる領域が海馬の役割を引き継ぎます。実際、モレゾン氏のケースでも、子どもの頃の記憶は比較的そのまま残っていました。


竹内 海馬だけではないほかの脳領域も記憶の保存には重要だということですね。もし記憶が脳に蓄積され、想起されるメカニズムをちゃんと理解できたならば、それと似たシステムをもつ小さな端末を作ってアルツハイマー病患者や記憶に障害のある患者の脳に埋め込み、代替的に記憶システムを機能させるようなことはできるのでしょうか。コンピュータのメモリのようなものを脳に埋め込んでそこにどんどん記憶をため込んでいくようなイメージです。


マックヒュー そこまでSFっぽい技術はなかなか難しいでしょうね。一方で、疾患や障害のある人たちの記憶の機能を強化する技術は実現可能かもしれないと思っています。ある特定の記憶を思い出させたりするのではなく、記憶システム全体の機能を改善させるような治療はできるかもしれない。近年さまざまな病気、例えばパーキンソン病や重度なうつ病の治療として、脳深部刺激療法で特定の脳部位を電気刺激する治療が行われていて、ある程度の効果もみられています。病気ではない人における記憶の強化、という点においても可能性はあります。実は海馬を中心とした回路の活動には、記憶の書き込み時に特化して観測されるパターンが存在します。脳内のこうした活動パターンを外部から刺激することで、記憶機能を強化することが物理的には可能になるとは思います。


記憶機能とテクノロジーの可能性


竹内 こうした技術には、さまざまな倫理的な課題もありそうですね。マックヒューさんはそういった技術は人類を幸せにすると思いますか?


マックヒュー ポジティブに作用する可能性はあると思います。脳深部刺激療法の現時点での課題は、効果的だと分かっていてもどのように機能しているのかを理解しきれていないことです。これは実は脳深部刺激法に限らず、現在使われている多くの医学的治療法にも当てはまる課題です。私たちがすでに使用している薬のうち、効果的ではあるけれど、どのように効いているかは分からないものが実はたくさんあります。


竹内 精神疾患に関しては、そのようなことが多いと林(高木)朗子さんにも以前聞きました。


マックヒュー 私の友人にLi-Huei TsaiというMITでアルツハイマー病などの脳神経疾患を研究している研究者がいます。彼女の研究室がとても面白い研究成果を報告しました。動物の脳波にはいろいろな波長があり、そのうちのガンマ波は海馬付近で作用していて、大脳皮質前頭葉での認知機能や海馬の記憶形成にも重要な役割を果たしているといわれています。ガンマ波は40ヘルツ、つまり1秒間に40回活動する周波です。そのガンマ波と同じ40ヘルツで脳の外側から光刺激する実験をアルツハイマー病のモデルマウスにしたんです。すると、脳の大部分でガンマ波の振動が誘発されました。そしてガンマ波が誘発されることで、アルツハイマー病の症状を呈していたモデルマウスでも記憶や認知機能が改善することが示されました。


竹内 なかなか良い治療法が見つからないアルツハイマー病ですが、可能性を感じる結果ですね! それに光刺激を加えるだけというかなりシンプルな方法ですよね。


マックヒュー そうなんです。この方法の素晴らしいところは、医薬品でも身体を傷つけるような侵襲的な技術でもないことです。患者さんの脳に外部から40ヘルツの光や音の感覚刺激を与えるだけです。彼女は実際にこの技術をアルツハイマー病の患者さんへの治療に応用するために、共同研究者とともに会社を設立しました。そして効果がみられることを示唆する結果が得られています。アルツハイマー病の根本的治療にはなりませんが、記憶機能を保全して病気の進行を緩やかにする効果があるそうです。これから研究が進み、実用において期待通りの効果を示すことができたら、とても素晴らしいことだと思います。




後編へつづく




Profile

  • 今夜の研究者

    Thomas McHugh(トマス マックヒュー)
    理化学研究所 脳神経科学研究センターにて神経回路・行動生理学研究チームを率いる。
    米国イリノイ州シカゴ出身。マサチューセッツ工科大学(MIT)にて博士号取得。
    MIT The Picower Institute for Learning and Memoryでのポスドク研究員を経て、2009年より理研にて研究室を主宰。趣味はサイクリング、子どもたちと遊ぶこと、野球観戦。推しはシカゴ・ホワイトソックス、ボストン・レッドソックス、東京ヤクルトスワローズ。

  • Barのマスター

    竹内 薫
    猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
    Twitter: @7takeuchi7


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ツグヲ・ホン多(asterisk-agency)


編集協力

NATURE & SCIENCE