第八回 Thomas McHugh Memories Are Made Of This♪-記憶を作る脳の仕組みを探して

第八回 Thomas McHugh
Memories Are Made Of This♪-記憶を作る脳の仕組みを探して 後編

強い感情は記憶を左右するのか


竹内 感覚的な印象なのですが、記憶というと、何かとても嬉しい気持ちや辛く悲しい気持ちなど、強い感情とその記憶の鮮明さは結びついている印象があるんですね。記憶の強さ、鮮明さは、その時の感情と関係はあるのでしょうか?


マックヒュー 強い感情を伴う記憶については、フラッシュバルブメモリーと呼ばれ、社会的に大きな衝撃を与えるような事件や事故とその記憶についての研究があります。例えば2001年に起きたワールドトレードセンターでのテロ事件直後に、いくつかの心理学分野の研究グループが事件と記憶についてのデータを集めて報告しています。その一つ、デューク大学の研究グループは、テロの翌日に54人の学生に対し「あの事件が起きた9月11日の朝、あなたはどこにいましたか? 何をしていましたか?」と質問をしました。さらにフラッシュバルブメモリーと通常の記憶を比較するために、事件直前の日常の記憶についても学生たちに質問をしました。そして1週間後、6週間後、32週間後と時間をあけて同じ質問をし、記憶が変化するのか、しないのかを観察しました。この研究から見えてきたのは、実は9.11にまつわる記憶も、日常に関する記憶も、同じように時間の経過とともに薄れて正確ではなくなっていたということでした。それにも関わらず、学生たちは9.11に関する記憶を「鮮明に思い出せる」と答えました。実際には事件当時誰と一緒にいたかなどの詳細について忘れていただけでなく、事件直後には報告していなかった“新しい記憶”が付け加えられていたケースもありました。本人は「あの事件については今でも鮮明に覚えているんだ」と確信していたとしても、実際には記憶は不安定で時間とともに変化していたのです。



竹内 ということは強い感情と記憶には相関はないのでしょうか?


マックヒュー 実は議論は割れているんですよね。別の研究グループが行った9.11と記憶に関する研究調査があります。研究チームは、事件当時に現場であるワールドセンタービル近く、つまりマンハッタンと呼ばれるエリアにいた人々とミッドタウンと呼ばれる離れたエリアにいた人々の二つのグループにおいて、この事件を思い出す際の脳活動をfMRI(機能的時期共鳴画像法)で測定してみたのです。記憶を呼び起こすわけですから、やはりどちらのグループにおいても海馬は活動していました。しかし、二つのグループでは大きく異なる点があったのです。当時マンハッタンにいたグループでのみ、海馬に加えて扁桃体と呼ばれる脳領域も活性化していました。扁桃体は感情に関する情報を統合する脳部位であると考えられています。記憶の正確さはともかく、記憶の強さ、その時の情景や匂い、音などの詳細を「鮮明に覚えている」という点については、扁桃体が関係する強い感情を伴う記憶の方が強く刻まれる、という報告があります。恐怖体験やトラウマ体験においては、私たちは日常的な出来事よりもより詳細に覚えているというのは紛れもない事実です。


竹内 なるほど。その記憶に関わっている脳部位によってやはり違いがあるのですね。9.11に関しては当時日本にいた人よりも、事件が起こったアメリカ本土にいた人々の方が、より鮮明に記憶しているように思います。同じく辛い出来事ですが、2011年に起きた東日本大震災についても、そのころ日本にいた多くの人は、強い感情とともに詳細に出来事を記憶している、または自分は鮮明に記憶していると感じているのではないでしょうか。


マックヒュー ただ、実は、出来事が起こった当時の自分の感情やその記憶に、テレビやメディアを通じて外から得た情報が加えられていくということもあります。最近の研究では、こうした強い感情と結びついた鮮明な記憶の詳細に関しては、実際に起こったことではなくても「起こったことである」と自分自身を納得させるために、後から記憶として加えられたものも多いのではないか、という報告もあります。


あいまいで上書きされていく私たちの記憶


竹内 つまり私たちは常に自分のなかの記憶を変えている、編集し続けているということですね。


マックヒュー その通りです。そこで生じる大きなクエスチョンは、「そもそも記憶の実態とはなにか」ということですよね。研究者たちは記憶の実態としての“痕跡”が脳の中にあるはずだと考えて、研究を進めてきたのですが、マウスなどの研究から分かってきたのは、記憶の痕跡とは脳内の特定の神経細胞群の活動パターンであるということでした。これを記憶エングラム(記憶痕跡)と呼びます。そして記憶を呼び起こすということは、この痕跡としての特定の神経回路における特定の神経細胞群の活動パターンを再活性化させることにほかならない、という理論が確立してきました。ということは、その回路に手を加えれば記憶は書き換えることができることになります。つまり、思い出すプロセスで過去に活動した回路がもう一度活性化されるということは、ある意味、過去の記憶が「今」になるということで、更新可能な状態になるということなのです。良い記憶に書き換えることもできるわけですが、もし更新可能な状態にある過去の記憶に別の記憶が混入すれば、実際は起こってはいないのに自分は経験したと感じ、それを正しい記憶だと信じてしまう脆さもはらんでいる。自分が「正しい」と思っている記憶でさえ、移ろいやすく曖昧なんです。



竹内 つまり「思い出す」という行為が記憶をあやふやなものにしているということでしょうか。


マックヒュー そうなんです。例えばマウスにある記憶を思い出させた後、新しいタンパク質の生成を阻害する薬を投与すると、記憶は忘れ去られてしまいます。ところがマウスが記憶を思い出していないときに同じ薬を与えても、記憶には何の影響もありません。つまり、思い出すというプロセスそのものが記憶を繊細で脆い状態にしている。記憶というものは編集されたり更新されたり、今経験しているものごとに関連付けられたりするものなのです。例えば今まさに経験していることと似た経験を過去にしたことがあるとします。そうすると私たちの脳は、現在と過去の経験の共通点、つまり思い出す必要がある共通の原則を探しだそうとする。でもその結果、過去と現在の記憶が混ざってしまうこともあるわけです。


竹内 何だか大きな問題のように感じますね。例えば裁判所での証言は証人の記憶が元になっているわけで……。


マックヒュー そう、これは大きな問題です。少なくともアメリカでは目撃者の証言が最も重要な証拠とされていますが、人間の記憶の保存と想起は、パソコンでデータを保存するといった様式とはまったく違うので、記憶を頼りにした証言についてはおそらく最も穴の多い証拠だと言えます。



竹内 記憶とは、しっかりと固定されたものではなく非常にあやふやでもあり、書き換え可能だということがよく分かりました。ただそのなかで、私たちは日々新たに記憶するという行為を繰り返していますよね。外の世界から入ってくる、脳にとって新しい情報が常にあるわけです。そして、多少あやふやであろうとも脳の中にはすでに過去の記憶、その痕跡がある。現在と過去の記憶を比べたり、考える際に過去の記憶を引き合いに出したりして参照することもできる。自分の外と内をちゃんと区別できているのはよく考えると不思議です。


マックヒュー とても面白い点です。たしかにふつう、私たちが現在進行形で知覚したり経験したりすることは、思い出している記憶には影響されません。つまり脳には自分の外の世界からの外的な情報と、自分の内部で生成した内的な情報を区別する能力が備わっている。しかしこれらがどのように脳内で区別されているのかはよく分かっていません。これは私の専門外になりますが、その二つを隔てる壁が壊れ、内的なものと外的なものを区別する脳内のシステムが上手く機能しない状態は、何らかの精神疾患の発症につながるという仮説があります。また、寝ている間に見る夢がその壁を少しだけ壊しているという説もあります。私たちの夢は、自分で内的に作り出しているのにも関わらず、時としてそれを外的な出来事として経験しているように感じることがありますよね。


竹内 私たちが一般的に持っている夢の概念が上書きされるような面白い仮説ですね。内と外を区別する能力というものは人間ならではの高次機能なのか、その機能の不具合と精神疾患との関係性、覚醒や睡眠は脳にとってどんな意味があるのか、意識とは、無意識とは、心とは一体何なのか……記憶研究からどんどん広がっていきます。


心を落ち着かせる場所


竹内 マックヒューさんは日本とアメリカの大学を含む研究機関を経験されていますが、比べてみて、大きな違いや研究のしやすさ、反対に難しさを感じたりしますか?


マックヒュー 国による違いはやはりあると思います。良いとか悪いとかではなく「ただ違う」ということだと思います。多くの研究所においては、さまざまな出身地や文化的背景を持つ研究者や学生が集まるので、自分で体験する以外にもいろいろな意見を聞いてきました。どの国で研究しても、誰もが何かしら満足していたり不満があったり、物事に対処していかなければならないものですし、人っていろいろと文句を言うのが好きな生き物ですよね(笑)。理研CBSに関しては、設立当時から国際的な視点を持っていてアメリカに近いスタイルで運営されているため、日本の多くの研究機関とは少し違うのかなと思います。そのおかげで、ここで働くのはアメリカやヨーロッパの研究機関で働くのと大きく変わらないと感じています。


竹内 研究室のメンバーは何人ですか?


マックヒュー だんだんと大きな研究室になってきて、現在は15~16人くらいかな。


竹内 かなり大所帯ですね。ラボメンバーとはどのくらいコミュニケーションをとるのですか?


マックヒュー ラボにいる時間のうち、半分くらいはみんなと話すようにしています。雑談やちょっとした会話以外にも毎朝1対1のミーティングを30分程度行っています。特に修士と博士課程の学生とは毎週話すことで、私の意識をしっかり彼らへ向けるようにしています。ポスドクなどのシニアスタッフや技術者たちとは隔週でコミュニケーションをとっています。


竹内 たくさんのメンバーがいるとなると、もうご自分では実験は行わないのでしょう。


マックヒュー 私は実験がとても好きなんです。理研に来た当初はラボの規模は小さかったですし、実験から何から自分でやっていました。最近では、手を貸したり、アドバイスをしたりすることはありますが、難しい実験についてはラボのスタッフに任せていて、自分で行うことはずいぶん少なくなりました。それでも、なるべくマウスの飼育施設に入り世話をするなど自分で手を動かすようにしています。私のラボでは多種のトランスジェニックマウスを使うので、研究用のマウスは全て私が繁殖させているんです。若いマウスを隔離して、遺伝子型を調べる作業も行っています。その点では、ちょっと変わったラボリーダーかもしれませんね。それらを行う日は、一日中マウスに触れていますよ。


竹内 そうなんですね! 何となくそのような仕事は若手や技術者の役割というイメージですが、マックヒューさん自身で行っているのですね。そこに何か研究へのヒントがあるのですか?


マックヒュー 細部に注意を払って集中して行うようなものや、繰り返しの作業など、実験にもいろいろ種類がありますよね。集中力を要するような実験はどっと疲れますし、単純作業の場合はリラックスできてある意味メディテーションにもなる。仕事においては、その二つのバランスが重要だと思います。私にとって、実験室でマウスの飼育に費やすことは、何となく禅の修行のような、心が落ち着く時間なんです。



人生の箱を幸福で満たすために


竹内 マックヒューさんにとって、慌ただしい日常のなかで、誰にも邪魔されない自分と向き合えるような貴重な時間なのですね。日米で研究者として研究に邁進しつつ若手研究者や学生を育てる立場として、キャリア選択に迷っている、あるいはサイエンスのキャリアに進もうとしている世界中の若い人々にアドバイスがあれば教えてください。


マックヒュー 「本当に心から興味のあることをやるべきだ」ということです。これはどんな職業にも当てはまることだと思います。私の場合はサイエンス、そのなかでも基礎研究を職業として選択したわけですが、日々、自分の関心や興味に基づいて取り組むことができる今の状況に満足し、同時にとても恵まれていると感じています。



竹内 それってとても大事なことですよね。自分の人生をどうやって主体的に満たしていくか。そして、マックヒューさんは研究者という道に満足していらっしゃる。


マックヒュー 研究者というキャリアは、運が良ければ30代後半で独立し研究室のリーダーになることができますが、もちろん自分の研究室を持てない場合も多くあります。一般的な会社に勤めた場合と比べると、リーダーになるまでには時間がかかるし、競争も激しく困難な道でもある。やはり、自分の時間と熱意をそこに注ぎたいんだという強い気持ちが必要になります。だから「本当にそれをやりたいのか」ということを自問自答してはっきりさせた方がいい、というのが悲観的ではなく極めて現実的な私からのアドバイスです。そしてもし、とことん突き詰めて考えたときに本当にやりたいと思えないのであれば、それでも構わない。私のところに来る学生たちを見ていると、皆とても頭脳明晰で素晴らしい高校、大学、大学院に入り、高いレベルの教育を受けています。こういう賢い若者たちには、高給で自由があり、研究室のリーダーをめざすよりは辛くない人生を与えてくれる仕事がたくさん見つかると思います。研究者ではない道を選ぶことを挫折と捉える必要はないと思うのです。人生というのは、自分のなかにある色々な箱を満足や幸福で満たしていく作業ともいえる。ハイレベルな教育を受けてスマートな頭脳をもって、さらに努力もできるのですから、ほかの仕事を選んでも自分の人生の箱を満たすことはできると思います。


竹内 なるほど。人生という大きな視野で見た時に、どの箱を何で満たすのかは人それぞれだということですね。そのなかで自分が幸福になる、自分自身を幸福にしていく方法はさまざまある。そういう意味でマックヒューさんが人生のなかで満たしていく箱の一つともいえる、脳と記憶に関する探求はまだまだ続くと思いますが、研究者としてのキャリアのなかで「絶対に答えを知りたい」と思う最も大きな問いは何でしょうか?


マックヒュー 「私たちの脳は、どのように記憶を作るのか?」という大きな問いに答えることができれば、やはり幸せですね。私が研究を行ってきた25年ほどの間に記憶研究では大きな進歩がありましたが、これまでに得られた答えにまだまだ満足はしていません。私たちは自分自身の経験などから、記憶が複雑なプロセスであることを知っています。私たち人間は生きている間、何かを経験し、それらを記憶する。長期間保たれる記憶もあれば、すぐに忘れてしまう記憶もある。その違いを起こしている物理的、生理学的理由は何なのか。また、とても鮮明に思い出せる記憶もあれば、ぼやけていて断片的にしか思い出せない記憶もあります。この二つの記憶の違い、脳内で起こっている現象の違いとは何なのか。脳の中で記憶がどのように組み立てられ、蓄積されるのかという基本的な脳のシステムを理解することにこれからも全力で取り組むつもりです。それが、私が子どものころから考えていた生命の成り立ちや人間の理解に少しでも近づき、私のなかのとても大切な箱を満たしてくれるのだと思います。




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Profile

  • 今夜の研究者

    Thomas McHugh(トマス マックヒュー)
    理化学研究所 脳神経科学研究センターにて神経回路・行動生理学研究チームを率いる。
    米国イリノイ州シカゴ出身。マサチューセッツ工科大学(MIT)にて博士号取得。
    MIT The Picower Institute for Learning and Memoryでのポスドク研究員を経て、2009年より理研にて研究室を主宰。趣味はサイクリング、子どもたちと遊ぶこと、野球観戦。推しはシカゴ・ホワイトソックス、ボストン・レッドソックス、東京ヤクルトスワローズ。

  • Barのマスター

    竹内 薫
    猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
    Twitter: @7takeuchi7


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編集協力

NATURE & SCIENCE