脳と時空間のつながり vol.1

読者の皆さんは、脳の中に、まるで地図やカーナビのようなシステムがあることをご存じでしょうか?

18世紀にドイツで活躍した哲学者のイマヌエル・カントは、彼の著書『純粋理性批判』の中で、「空間はアプリオリに(a priori:経験に先立って)脳の中で認識される」と提唱しました。つまり人間の心には、あらかじめ空間を直感的に認識できる能力があるというのです。別の言い方をすれば、我々の外にある空間とは、我々の心が作るものであり、どのように世界を捉えているのかは、我々の認識そのものにかかっている、と考えたわけです。

もちろん現代科学では、心の在り処を脳にあると考えます。カント哲学に触発された神経生理学者のジョン・オキーフ博士は、視覚や聴覚のために脳の感覚野があるならば、空間認識のための脳部位が存在するに違いないと考えました。そして1970年代に、空間情報をつかさどる「場所細胞」と呼ばれるニューロンを見つけたのです。この功績で、オキーフ博士は2014年度のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

この場所細胞を調べることによって、さまざまな脳の働きが分かってきました。たとえば、自分が通ってきた場所や道筋を長期記憶として定着させるために脳内で記憶が再生されていたり、睡眠中に夢を見ているときにも脳内でその記憶が再現されていたりするのです。また、空間を認識する仕組みは、時間の認識にも関わっているようです。私たちは、神経生理学の視点から、我々が脳の中で時間や空間をどのように認識しているのかをより詳しく解明したいと思っています。

脳からのメッセージを読み解く

脳の働きをリアルタイムで観察するために、細胞の電気的な活動を記録し研究することを「電気生理学的手法」といい、その手法を駆使して脳の機能を解明しようとする研究分野を「神経生理学」といいます。神経生理学を研究する者にとって究極の目標は、脳で起きていることをすべて観測し、観測結果の背後にあるメッセージを読み解くことでしょう。

私たちの実験では、微小な電極を使って、実験動物の脳を構成するニューロン(神経細胞)から、その活動を電気信号として計測しています。ニューロンが信号を発することを発火といいますが、私たちが計測する信号は、1個や2個のニューロンの発火ではありません。100から200という数のニューロンの電気信号を記録し、解析しています。しかし、よく実験に使われるマウスでも、大脳のニューロンの数は7000万個もあるといいますから、神経生理学者の究極の目標を達成するには、まだまだ時間が必要です。

とはいえ、技術が進歩してきたことで、同時に数百個ものニューロンの発火を記録して解析できるようになったのです。大きな目標に、一歩ずつ近づいています。

ニューロンが活動している瞬間をとらえる

脳の活動は、ニューロンの発火から作り出されていますが、ニューロンの発火は、本当に速い、数ミリ秒というような時間スケールの現象です。私たちの行っているような電気生理学的な実験は、実際の人間の心の時間スケールに、もっとも近い実験だといえます。

分子生物学的な実験では、分子や遺伝子を操作して、脳の現象と結びついたニューロンの様子を分子レベルで見ますが、電気生理学的な実験では、ニューロンが実際に活動をしている瞬間をとらえることができます。大量のニューロンの活動を記録することによって、実際に考えているとき、あるいは行動しているときに、その瞬間、脳の中で何が起きているかを観測できることが強みなのです。

それでは、電気生理学的な実験はどのように行うのか、具体的に説明しましょう。まず実験動物のラットやマウスの脳に超小型の高性能電極を埋入します。どの脳部位に電極を埋入するのかは、マウスやラットのアトラスという脳地図を参考に、実験目的に合わせて決めています。

実際の電極はシリコンプローブという、とても小さなものです。先端に60個ぐらいのチャネル(小さな電極)が付いています。およそ一つのチャネルで一つのニューロンの活動を記録します。私たちのプローブは、細い先端部分に4~8本の櫛状の針があり(図1)、櫛の歯一本一本に、先端から20マイクロメートルくらいの間隔を開けて配置されています。これをマウスの頭に手術して、埋入するのです。

シリコンプローブ
図1 シリコンプローブ
図のように、先端に8~10個のチャネルが付いた
プローブで、ニューロンの活動電位を記録する。

問題は、針の細さに比べて、針を支えているコネクタや周辺機器が大きなことです。今のところ、このコネクタなどの大きさが、脳に刺すことのできるシリコンプローブの数の物理的な限界を決めています。もっと周辺機器を小型化できれば、いずれはシリコンプローブのチャネル数を増やせるはずです。目標は数千個、数万個のニューロンから記録を取ることです。

動物に電極をセットしたら、空間探索迷路を解いたりレバーを押したりといった、さまざまな課題を行わせます。そのときのニューロンの活動をリアルタイムで計測するのです。実際には、このマウスがつけるヘルメットのようなものからケーブルがつながれていて、課題を行っている最中のニューロンの電気信号を記録しています。

課題を実行させているときに、外部からマウスに与える刺激のことを「イベント」と呼んでいます。イベントとは具体的には、音や光などの刺激、他の個体と遭遇すること、特定の場所に行き着くことなど、あらゆる状況や経験のことです。実験中のマウスは、そうしたイベントを手がかりに、空間を認識したり、時間や順序を記憶したりするような学習をします。私たちは、イベントを組み合わせてマウスの学習をコントロールし、その瞬間に脳の中で数多くのニューロンが活動する様子を記録し、その結果を解析して、脳機能、とくに記憶のメカニズムについて探っているのです。

犬にもエピソード記憶はある?

記憶の形成に必要な脳部位である海馬は、とくに動物の場合、空間に関係する記憶に必要だと言われています。一般に「記憶」と聞けば、空間認識よりもエピソード記憶のようなものを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
エピソード記憶は、自分が経験したことを思い出すような、時間を回顧する能力です。かつて、ヒト以外の動物にはエピソード記憶はできないと思われていました。たとえば動物に「1時間前に何をしましたか?」などとインタビューできませんからね。しかし、最近は研究の進展によって、動物にも人間のエピソード記憶に近い能力があると考えられるようになってきました。

動物実験では、繰り返し訓練したことを再現するという形で記憶を確認するのですが、これは「手続き記憶」といって、学習による無意識の動作で、エピソード記憶ではありません。動物から、過去に一度だけあった経験(「ワンショット」と言います)を確認することは困難です。たとえば1時間前に初めて起きたことを覚えているか否かを、動物のどのような行動から読み取ればよいのかに工夫が必要なのです。

動物が空間を記憶できることは、昔から知られています。もし動物が、一度だけ自分が通った道筋を思い出すことができるなら、それはワンショットのはずです。その道筋にエピソード記憶と強く結びつくようなイベントがあれば、ワンショットのエピソード記憶を確認できるかもしれません。

このようなアイデアを元にしたおもしろい実験があります(図2)。これは京都大学の藤田和生博士が行ったものです。まず飼い主さんに犬を連れてきてもらって、実験室に入り、等間隔に並んだ4個の箱を犬に見せます。犬にはリードが付いています。4個の箱のうち、一つ目は空っぽです。二つ目はエサが入っていますが、見せてもリードを引っ張って、食べさせません。3つ目はエサがあって、これは犬に食べさせます。4つ目は石ころが入っています。4つの箱を開ける経験をしたあと、犬は、そのまま飼い主さんと実験室を退場します。

部屋に戻ってきたとき、犬はどの箱のところへ行く?
図2 部屋に戻ってきたとき、
犬はどの箱のところへ行く?

ここからが本番の実験になります。少し時間をおいて、飼い主さんと犬に実験室に戻ってきてもらうのです。先ほど、犬は再び戻ってくることは知らずに、4個の箱を体験して、退場しました。さて、再び戻ったとき、犬はどこの箱に行こうとするでしょうか?それを確認することが実験の目的です。

もし学習的な繰り返し記憶が優先されるなら、エサを食べさせてもらえたことを思い出しているでしょうから、3つ目の箱に行くと考えられます。しかし、先に1回だけ経験したことを覚えているのであれば、どうでしょうか。つまり、エピソード記憶が優位だったら、さっき食べてしまった箱は空っぽだ、と考えるでしょう。あるいは、さっき食べさせてもらえなかった箱にはまだエサが入っているだろう、と考えたならば、二つ目の箱に行くと想定されます。

そして実際に実験すると、二つ目の箱に行く犬が多かったのです。つまり、犬でもこのようなワンショットの記憶、エピソード記憶がある程度できるという結果になりました。

以上の例で分かることは、イベントを上手く配置すれば、動物でもエピソード記憶を確認できるかもしれないということです。たとえば実験動物に、さまざまな経験(イベント)を与えたとき、それぞれのイベントに付随した特定の課題を遂行させ、どのような記憶が形成されるかを調べるのです。あるいは実験動物が別の動物を観察しているときに、それが記憶としてどう表現されているかを調べるようなことも、おもしろいかもしれません。

著者:藤澤茂義 時空間認知神経生理学研究チーム チームリーダー

出典:講談社ブルーバックス



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