第四回 武石明佳
The Little Things That Mean So Much♪-1ミリの線虫から広がる世界 前編
シンプルで透明、分かりやすい生き物「線虫」
竹内 武石さんは線虫を使って脳の研究されているんですよね。線虫って、そもそもどういう虫なんですか?
武石 なじみが薄くてなかなかイメージが湧きにくいですよね。私たちが研究で使用しているのは、細長いひも状の生物で、体長は1ミリぐらいと非常に小さく、バクテリアを食べて生きているC. elegans(シーエレガンス)と呼ばれる種類で、研究用モデル生物として確立されてきた虫です。線虫は自然界で非常に種類が多く、実は昆虫の種類よりも多いのではないかといわれています。飼い犬などにも寄生するフィラリアも線虫の一種です。シーエレガンスは寄生虫とは違い自由生活をしているので土壌にいるミミズのようなものというイメージですかね。
竹内 なんでまたそんな小さな虫を使って複雑な脳の研究をしているのか、すごく興味があります。
武石 線虫を使う一番大きな理由は、脳にあたる部分がとてもシンプルで分かりやすい、ということです。マウスやヒトなどの複雑で高等なモデル動物ではなかなか解明が難しいことでも、構造がシンプルな線虫を使えばある程度理解を進められる、それが将来的にはヒトの理解に近づくのではないか、という期待を込めて線虫で研究をしています。
武石ラボで撮影された線虫
竹内 どういう点がシンプルなんですか?
武石 まずは神経細胞の数です。脳に該当する神経系と呼ばれる部分の神経細胞が302個しかないんです。
竹内 302個ですか。人間の場合は脳の神経細胞は何個くらいあるんでしょうか?
武石 ヒト脳の神経細胞は1000億個前後と推定されていて、線虫の302個と比べると、非常に数が多いのは明らかですね。
竹内 だいぶん差がありますね。302個ときっちりした数をおっしゃいましたが、その数は決まっているんですか?
武石 そう、きっちり302個でして、どこにどういう神経細胞があるかだけでなく、どの神経細胞とどの神経細胞がつながっているかという情報も全て分かっています。非常に詳細にまで調べられたデータベースがもうできているんです。
竹内 ちなみに人間の場合は、脳の神経細胞の数は決まってないんですか?
武石 決まってないですね。脳の大きさや重さもさまざまです。線虫の場合は、神経細胞が302個というだけではなく、体全部の細胞の数も959個と決まっています。
竹内 え~、どうして決まっているんですかね。
武石 不思議ですよね。線虫の体は透明で、外から一つひとつの細胞を見ることができる。線虫研究の創始者であるS.ブレナー博士、R. ホロビッツ博士、E. サルトン博士らはそこに着目して、線虫の卵が産み出されてから成虫になるまで、全ての細胞を丹念に追いかけて記録しました。そうした一連の研究のなかで、必ず死ぬと運命づけられている細胞があること、必ず分裂する細胞が存在することを突き止めるなど、生物の発生研究の礎となる報告をしました。彼らは「プログラムされた細胞死」という過程を発見した功績で2002年にノーベル賞を受賞しましたが、同時にその研究によって、線虫の細胞の数は必ず決まっていて、それぞれどこにあるのかマッピングできる、ということも示されました。これってほかの高等な動物では見られないユニークな特徴で、研究にとっては大変に便利なんです。
竹内 便利、というと?
武石 脳の研究でいえば、線虫は神経細胞の数が圧倒的に少ないだけでなく、それらのつながり、つまり配線図が全部わかっている。ハードウェアの大半が詳細に分かっているから、その機能メカニズムを探るソフト面の研究がしやすい。ヒトをはじめとした高等生物の脳に関しては、今、世界でこぞってその配線図を明らかにしようと大きな国家プロジェクトを動かしていますが、神経細胞数が膨大なうえ、配線がかっちり決まっていない部分が多いため、非常に難しい課題となっています。線虫ではシンプルな構造という特徴を活かすことで研究が比較的進めやすいと言えます。
人間と線虫は70%が共通!? 生存維持の根幹は同じ
竹内 なるほど。複雑な脳の仕組みを理解しようというなかで、既に分かっている条件というか、基礎情報が多いということですね。それにしてもですが、1ミリばかりの細長い虫に「脳」のように働く臓器というか部位があるんですか?
武石 実はその点に関しては、定義付けが難しいのです。まず、私たち生物学者としては「線虫には脳はない」と考えます。脳に該当する器官としての神経系はあるのですが、私たちはそれを脳とは呼ばない。私がアメリカで研究をしていたときにも仲間の研究者たちと「なんでこんなに神経が集まっているのに脳と言えないんだろうか」と議論になり、いろいろ調べたてみたんです。ヒト脳の場合は、神経細胞が大脳、小脳、前頭葉などといった単位のクラスターに分かれて機能して、それらが階層的に互いに情報をやり取りしてさまざまな脳機能を担っていますが、線虫の場合は一つひとつの細胞がそれぞれの機能を持っているという構造なので、中枢神経や末梢神経という区別がなく、中枢神経のいわゆる脳としての基本的構造である階層構造やクラスター構造にはなっていないという点が「脳」とは定義付けできない一番の理由、ということになりました。
竹内 そういう違いはあるけれど、線虫のミニマムかつシンプルなシステムが人間のような複雑な脳を理解するためのよい教材、モデルとなるんですね。
武石 そうです。さらに、線虫は体が透明なので、外から一つの神経細胞だけ狙ってレーザーで殺す、つまり細胞としての機能を止めることができるんですね。特定の神経細胞をなくした時に個体(線虫)の行動がどう変化するのかを調べることで、どの神経細胞に依存してどの行動が生み出されるのかが見えてくる。解剖学と行動学を結びつけるような実験を組むことができるんです。
竹内 神経と行動の因果関係を見つけていくということか。
武石 ヒトよりもシンプルといってもこれまでの研究は地道な実験と結果の積み重ねです。まず、20~30年前には、それぞれの神経細胞の役割を調べるために、一つひとつ神経細胞をレーザーで取り除いて線虫がどう変化するかを調べる実験が多く行われました。現在、名古屋大学教授をされている森郁恵先生らによる、線虫が温度を感知するのにどの神経細胞が重要かを同定した研究や、Cori Bargmannらによる匂い感知神経ネットワークの同定などがよい例です。さらに、神経活動をリアルタイムでモニターするような方法がたくさん生み出され、また神経活動を人工的に活性化したり、抑制したりできるシステムが開発されました。これらの技術を駆使することでもっと深くミクロな分子レベルに踏み込み、線虫の神経同士のコミュニケーションにどういう遺伝子、タンパク質がどのタイミングで重要なのかという点も明らかになってきましたが、そうした分子の多くが線虫とヒトで共通して保存されていたのです。
竹内 「人間と線虫って大差ない」ってことですかね。
武石 実はそうなんです。線虫もヒトも生き物としてそれを構成するのは細胞であり、遺伝子であり、遺伝子が合成するタンパク質であり、と根っこは同じなんですね。具体的な数字で言うと、遺伝子レベルでは約70パーセント共通しています。特に生存を維持するのに大切な分子や、行動などを調整するのに重要な分子はヒトも線虫も同じように進化的に保存されている。「ヒトの脳を理解しようとしているのになんで線虫を使うの?」とよく言われるんですが、そのような類似性を味方に、線虫で分かったことがヒト脳機能の理解へとつながるのではないかと考えているわけです。
竹内 でも、一般人からするとすごく信じがたいというか……。線虫と人って、全く違うじゃないですか! われわれ人間の方が言ってみれば高等生物なわけですよね。なのに、線虫と遺伝子が70パーセント共通しているっていうのは驚きですが、本当なんですね?
武石 はい、本当です(笑)。もちろん、違う部分もあります。ヒトにはあって、線虫にはないものも多いですよね。例えば、線虫に目があるかと言われれば、光は感じることができますが、いわゆる目はない。歯もない。見た目だってぜんぜん異なる生物です。しかし、例えば神経細胞同士がコミュニケーションするときに使われる神経伝達物質、ドーパミンやセロトニンというような脳の機能や動物の行動を左右する重要な物質については、その作用や機能も含めてかなり共通しています。
竹内 やっぱり基本的な仕組みは同じってことですね。
武石 はい。確かに線虫は細胞数も少ない、非常にシンプルなシステムなのに、ヒトと遺伝情報をこんなに高い割合で共有しているという事実は意外かもしれません。それならばヒトの複雑さ、高度さはどこからくるのか、と思ってしまいますよね。ただ、ヒトと線虫の大きな違いの一つとして、情報としての遺伝子は同じでも、そこから作られるタンパク質の種類が違う場合があります。線虫では一つの遺伝子から少ない種類のタンパク質しか作られない反面、ヒトなどの高等動物では同じ遺伝子から例えば少しだけ長さが違うタンパク質が複数作られていて、そうした少しずつ性質の異なったタンパク質がそれぞれ違った役割を果たすことでより複雑な仕組みを可能にしている、ということもあるんですね。一緒に働くほかの遺伝子との組み合わせで役割が変わる、ということもよくあります。その辺りが人間の複雑さにもつながっているのかもしれません。
「何気ない選択」は高度な脳の機能で成り立っている
竹内 その線虫を使って、武石さんはどのような研究をされているんですか?
武石 線虫が感覚をどうやって探知し、さらにその感覚の情報をどのように統合して行動に移しているかを研究しています。具体的には、たとえば匂いと温度など複数の刺激を線虫に与えて、線虫が刺激の方に寄って行くのか、逃げるのか、その行動を調べながら、神経活動を解析したり、働く分子を調べたりします。実は、匂いや温度など一つひとつの刺激がどう神経系で処理されるのかというメカニズムは、ここ20~30年の間にかなり明らかになってきたのですが、匂いと温度など複数の感覚情報を生物がどうやって統合して、とるべき行動の判断をしているのかはまだ分かっていません。実際の自然界では、匂いも温度も同時に感じますし、ヒトの場合だとあそこに何か見えているな、というような視覚情報もさらに入ってきたりして、かなりたくさんの情報に常時さらされていますよね。そのなかで脳は、一番必要な情報をより分けたり、複数の情報を統合したりして、状況に最も適した行動を生み出している。こうした情報の統合とそれに基づく判断の脳メカニズム、つまり脳のなかの情報のバランスを取る仕組みはまだまだ未知でして、それを私たちは線虫で明らかにしたい。
竹内 僕たち人間は、情報や感覚の統合って意識していないのに本当に何気なくやっているんですよね。そして今何をすべきか、なんていう選択を随時、多くの場合には瞬時に行っている。
武石 そう。簡単に行っているようで、実は複雑な機能の上で成り立つ、とても高度なことなんですよね。そして生物としては感覚統合をするメリットがちゃんとあるんです。例えば、お腹が空いた線虫にとって、餌の良い匂いがする一方で餌のある場所は非常に条件が悪いとか、餌の匂いに天敵の匂いも混ざっていて近づくと命を落とすかもしれないという状況で、餌を取るのかそれとも身の安全を取るのかという判断は自然界を生きのびる上でとても重要な選択です。それを可能にするのが感覚情報を統合するメカニズムなのです。線虫のような小さな生物は特に環境に依存するところが大きくて、生き残るために感覚を統合し、適切な判断を繰り返さないといけない。私たち人間も、複雑な現代社会において、いろいろな条件があるなかでどれを選ぶか迷うことも多いですよね。もちろん人間の場合は命がけのサバイバルとまではいかないことが多いのですが、どの情報が一番重要かを脳内で判断して、今の自分に一番合っているものを選択していくことの積み重ねが、人生の豊かさにつながりますし、こうした感覚を統合する脳の機能は種全体としても必要な機能だと言えます。
竹内 例えば感覚の統合が上手くいかない場合もあるのですよね。そういうときはどうなるのでしょうか?
武石 それは私たちの知りたいことでもあるんです。例えば、情報のバランスを取れずに、匂いに非常にこだわって常に匂い情報を優先する線虫とか、どうしてもこの条件じゃないと嫌だっていう線虫の遺伝子の変異体を探していきたい。
竹内 もちろん人間でも起こりうる状態ですよね。
武石 はい。線虫でのデータや知見をそのままヒトへ当てはめて、線虫からヒトへ飛躍しすぎるのはもちろん禁物なのですが、ヒトにおける発達障害などが分かりやすい例だと思います。何かの刺激に強いこだわりがある、などというのは、脳内のバランスが崩れている可能性がある。もちろん、そのような状態であっても本人が不利益を感じていなければ問題ないのですが、生きづらさが伴うのであれば、社会として対応していくべき問題だと思います。発達障害や精神疾患の研究を含め、ヒトの脳の特性やその原因を探るのは非常に難しく、まだ分からないことが多いんですね。恐らく、たくさんの複合的な理由によってバランスが崩れている状態が生まれていると予想していますが、その複合的な理由の一つひとつを解きほぐして理解していけば、きっと最後には原因や仕組みが分かるんじゃないかと思っています。
シンプルな線虫はシンプルな数式化が可能?
竹内 最近はビッグデータを活用したコンピュータのシミュレーションで、研究がさらに進んでいくといったことも聞きますよね。神経細胞が302個だけの線虫の場合は、シミュレーションできちゃいそう、という気もするんですが、実際には可能なんですか?
武石 今、盛んに研究が進められているエリアですね。外からの刺激に対して、線虫の302個すべての神経細胞がどのように活性化するのかをライブイメージングするという全神経系イメージングからの実験結果も出ています。線虫は小さい動物ですし、なにせ透明なので、自由に行動をさせながら神経活動をモニターするのは比較的容易にできるんですね。そのようなデータをもとに、入力に応じてどの細胞とどの細胞がコミュニケーションを取り、ネットワークとしてどのように活動しているのかをシミュレーションする。この行動にはこの神経細胞やネットワークの活性化が必要だと同定してその情報をシミュレーションに反映させることで、記録した神経活動から行動を予測したり、また逆に、行動から神経活動を予測したりということは、かなり行われています。
竹内 僕、バックグラウンドが物理学なので、何でも数式に落としたがるところがありまして。302個だと将来的に、単純な数式に落とせそうな気もするんですけど、そこら辺はどうですか?
武石 本当にそこら辺はやりたいですね! 私たち、生物学の研究者が集まっているラボなんですが、ぜひ、数理系や物理系、理論の研究者や専門家と一緒にタッグを組んで、実験系だけでは明らかにできない部分、シンプルな線虫をシンプルな数式で表し、行動などを予測する、といったようなことをやっていきたい。ところが、「たかだか302個の神経細胞」であったとしても、神経細胞の機能から行動が生まれるメカニズムは完全には解明されてないですし、シミュレーションに落とし込んで線虫の行動を100パーセント予測するところまでは到達できていない。まずはもう少しこの神経細胞と行動の因果関係を生物学的アプローチで掘り下げて、明らかにする必要があると思っています。
竹内 もしそこまでできたとしたら、将来的には人間の脳活動というか、記憶を含む全情報をコンピュータとかインターネット空間とかにアップロードするぞ、みたいなSFとも近未来の現実とも言えそうな話があるわけですが、線虫であれば近いうちに可能になりそうな気がしますよね。
武石 そこまでいけば神経系や脳の仕組みを究極的に「理解できた」と言えると思うのですが、現実としてはまだまだですね。実際の神経活動を数理的な式に落しこむことにしても、膨大なデータから要素や法則を抽出してシンプルにしてからの作業ですよね。まずは膨大なデータを取ってこなければならない。ところが、線虫の遺伝情報はもちろんすでに全部解読されてはいるんですが、それぞれのタンパク質が、いつ、どこで、どのぐらいの量で、どんな働きをしているのかは、まだ全て分かっていない。下手したら、一つの神経細胞でも、例えば遺伝情報を格納している核のある細胞体の部分と、細胞体から突起状に長く延びている軸索や神経細胞が情報を受け取るために枝を伸ばしている樹状突起の先っぽの部分では、局所的に違うことが起きているかもしれない。いくら線虫がシンプルでも、生物として非常に複雑なことをしているのは間違いない。こういう一つひとつが最終的に全て明らかになるのにどれぐらいの時間が必要なのか……、まだまだ長期戦だと感じています。
Profile
-
-
今夜の研究者
武石 明佳(たけいし あすか)
理化学研究所 脳神経科学研究センターにて多感覚統合神経回路理研白眉研究チームを率いる。
兵庫県出身。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了後(薬学博士)、米国ブランダイス大学で研究を7年行う。帰国後、2017年に理研でスタートした優れた若手研究者をチームリーダーとして迎える理研白眉研究制度のチームリーダーとなる。趣味はフルート。3児の母。
X(Twitter): @Takeishi_Lab
-
-
-
Barのマスター
竹内 薫
猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
X(Twitter): @7takeuchi7
-
Topイラスト
ツグヲ・ホン多(asterisk-agency)
編集協力