第七回 上口裕之
You Fascinate Me So♪-脳に魅せられた外科医 前編
正しく伸びる脳回路の不思議
竹内 上口さんは、健康な状態で脳内の神経回路がどうつながるのか、また、回路が事故や病気で傷ついてしまったときの修復メカニズムについて研究されていると伺いました。
上口 ざっくりいうとそうなります。ニューロンとも呼ばれる神経細胞は、脳や脊髄からなる中枢神経系に無数に存在しています。それらが互いにつながり合い情報を伝えることで、身体の細かな動きや、記憶や新しいことの学習が可能になります。この小さな神経細胞にズームインしてみると、細胞体から軸索(じくさく)と呼ばれる1本の突起をにょきにょきと伸ばしています。この軸索が脳内外の離れた場所にある別の神経細胞をターゲットに伸びていくことで細胞同士がつながり、回路網ができるのです。軸索がどういう仕組みで周りの環境を読み取りながら正しいターゲットに向かって伸びていくことができるのか、またそのときに神経細胞内ではどのような現象が起こっているのか、これらを解明することが約20年前にラボを立ち上げた時の私の研究の原点ですが、研究を重ねて知りたいことはだんだんと広がってきています。
竹内 軸索っていうと、教科書で見るような星形の部分から長く伸びている構造、あれですか?
上口 “星形の部分”と竹内さんがおっしゃっているのは、中心に細胞核があって丸みを帯びつつもトゲトゲした突起のある細胞体のことですね。トゲトゲした部分は樹状突起(じゅじょうとっき)と呼びます。軸索は細胞体から通常1本だけ伸びていて、長いものも短いものもあります。一番長いものは大人の場合、首から足の親指まであり、1メートル50センチぐらいの長さがあります。
竹内 そんなに長いんですか⁉
上口 そうなんです。赤ちゃんの場合でも、生まれたときの身長を約50センチとした場合、その時点ですでに一番長い軸索は30~40センチはある。出発点となる細胞体の大きさはたかだか10~20ミクロンで、1ミリメートルの百分の1、2っていう長さです。その極小の細胞体から、ものすごく長い軸索を伸ばしているわけです。
竹内 長く伸びる電気回路の配線みたいな構造が、脳や脊髄を中心に神経細胞の数だけあるということですね。
上口 脳の場合はもっと複雑なのですが、事故などで脊髄が損傷したり、アルツハイマー病、パーキンソン病、多発性硬化症などの脳疾患で軸索に変性が起こったりと何かしらトラブルがない限り、基本的な構造としてはそうなります。
竹内 軸索が伸びていく、つまり神経ネットワーク形成のために成長していく、というのは人間の場合いつ頃起こる現象なのですか? 例えば胎児期に脳ができていく段階でのことなのか、それとも生後に環境からの入力を得つつ、脳や身体が成長する時期なのか、はたまた私みたいに大人になってから新たな脳細胞が生まれた際や何かを学習したり経験したりするときにも、軸索は相手を探して伸びているのでしょうか?
上口 神経回路の大部分は胎児としてお腹にいる間、細胞の増殖や分化が進んでいく発生段階で出来上がり、新生児期の学習や発達過程で少し再編されます。ただし、外傷などで回路が損傷した場合は再生して回路を作り直さないといけない。つまり、大体の部分は生まれたときに出来上がり、生後の発達期や大人になってからも回路形成のための軸索伸長は起こりますね。
竹内 小さな神経細胞が軸索をぐんぐん伸ばしてターゲットの細胞までたどり着く。でも無造作になんとなく伸ばしていけばいつかは目的の細胞にたどり着いて、情報を伝えるという役目を果たせるようになる、というわけではないですよね?
上口 そう、そこなんです。適切な相手につながってちゃんと機能を果たすには、まずは軸索が正しい道筋を通って、迷子にならずに目的の細胞のいる場所までたどり着かないといけない。これは、さまざまな働きを持つ分子が複雑に作用し合うことで可能になっているんです。細胞体から正しいルートで軸索が伸びていく仕組みのことを専門的には軸索ガイダンスとか、軸索誘導と呼んでいます。
超高度なミクロの世界のナビシステム
竹内 では、軸索は何に導かれてどうやって伸びていくんですか?
上口 ヒトなどの生体内においては、神経細胞の外の環境に道しるべとなるような分子が存在するんですね。こっちに来いと引き寄せるような「誘引性分子」と、逆にはねのけるような「反発性分子」があって、軸索は反発性分子がある方には伸びて行かず、引き寄せる分子の方向に進んでいくんです。
竹内 それって例えば、不案内な土地で車を運転していて「名古屋駅は2キロ先左折」みたいな標識やカーナビでの案内を随時確認しながら進んだり、道を間違えた場合にはカーナビが「こちらではないよ」と教えてくれたりするような、そんなイメージですか?
上口 ざっくりしたイメージはそれに近いですが、ミクロの世界でやっていることはもっと複雑で、軸索の先端部自身が周りにある分子を誘引性と読んだり、同じ分子を今度は反発性と読み替えたりすることもあるんです。そうやって中継地を通り過ぎ、次の中継地も同じように無事通過して、というのを何度か繰り返して最終標的の神経細胞までたどり着くんです。
竹内 一度誘引性と読んだものを反発性と読み替える……。非常に複雑なことをしているんですね。
上口 すごいですよね。そしてこれには理由があるんです。例えば経由地に誘引性のガイダンス分子があると軸索の先端は引き寄せられますが、中継地へ着いた後は、そこをちゃんと通り過ぎて行かないといけない。誘引性分子に引き寄せられてたどり着いた場所がすごく居心地が良いからといって、ずっと留まってしまったら困るわけです。目的地にたどり着けなくなっちゃう。中継地はあくまでも道しるべであり、離れて行かないといけない。次へ進むには、軸索の先端はそれまで引き寄せられていた誘引性分子の働きに応じずに、誘引性のガイダンス分子を反発性と読み替えないといけないんです。
竹内 近づきなさいと誘導していた分子が軸索との距離を感じ取って、そろそろ通過するなと思ったらパッと反発性に変化する、ということでしょうか?
上口 周りにある分子が変化するのではなく、軸索側のなせる業なんです。私はさっきから誘引性のガイダンス分子、反発性のガイダンス分子って呼んでいますけれど、分子そのものが誘引性や反発性の特徴を持っていたりするのではなくて、軸索側がその分子を「どう読み取るか」の問題なんです。つまり、ある軸索の先端部はある分子を誘引性と読み、別の軸索は同じ分子を反発性と読み、またその分子を誘引性と読む軸索であっても、そこをいったん通り過ぎてしまったら同じ分子を反発性と読み替えることができる、という仕組みなんです。
竹内 でも、軸索に目があって見て確認しているわけではないし、通過点を通り過ぎたということを軸索はどうやって分かるんですか?
上口 そこを通過することでしか遭遇しない分子がちゃんと通過点にはあるんですよ。
竹内 なるほど、次なるサインがそこにはある。
上口 軸索って身体の正中を交差するものが多いんですね。例えば右側の大脳は身体の左側の手足の運動や感覚を司っていて、反対に左側の大脳は身体の右側を制御している。だから大脳と手足をつなぐ軸索は、脳幹や脊髄のなかで必ず交差するんです。交差するとき、つまり身体の左から右へ、右から左へと引き寄せられてちょうど正中部を通り過ぎる瞬間に、正中部にしか存在しないいろいろな分子に暴露される。そうすると軸索先端の性質自体が変化して、今度は正中部から逃げるように反対側に交差していくんです。
竹内 新幹線で広島から新大阪に着いて、そこで運転士さんが交代して新しい運転士さんが東京まで向かうみたいなイメージですか?
上口 または、運転士さんが代わらなくても、同じ運転士さんが標識を読み替える学習をして、例えば今まで青信号だったものを今度は赤信号と読みながら東京を目指す、といったイメージです。
竹内 すごいな。ものすごく高度なことやっているんですね。
伸びゆく脳の回路をラボで再現
上口 やっていますよ。体内の小さな宇宙のなかでとてつもなく高度なことをやっている。実は、生体内での軸索が伸びていく仕組み、実験室で全て同じことを再現できるんですよ。
竹内 本当ですか! ということは、標識となるそこにしかない分子がもう分かっている、ということなんですね?
上口 いくつも分かっています。標識となる分子がこの種類の細胞に対しては誘引性の働きを持つけれども、別の種類の細胞に対しては反発性の働きを持つ、なども理解できています。実験では、まずガラス皿の上で神経細胞を培養して、一本一本の軸索を顕微鏡で観察します。面白いのは、軸索が伸びている最中は軸索の先端部分は針の先みたいな突起状ではなく、指を伸ばした手のひらやアメーバみたいに広がった形をしているんです。なぜ広がっているかというと、あっちに曲がるのか、こっちに曲がるのか、周りの情報を上手く読み取らないといけないから。アメーバみたいな形になりより多くの情報をキャッチできる構造になっている。
出典:神経細胞動態研究チーム
竹内 ものすごく効率的な形状です。
上口 面白いでしょう? 実際にアメーバみたいに運動しながらどんどん伸びていくのですが、生体のなかでは三次元的に、まさに円錐状に広がっていくんです。だからこの広がった先端部を成長円錐って呼ぶんです。ガラス皿の上だと二次元的に見えるので、アメーバみたいに広がって見えるんですけど、本来は三次元的な円錐形をしている。
竹内 この形状のおかげで周囲の情報を複数方向からキャッチできるんですね。アメーバみたいに移動中の成長円錐から伸びる突起の数は決まっているんですか?
上口 決まっていません。培養した細胞で見てみると、数本から十数本のことが多いですね。本数はさまざまで、その突起自体も伸びてみたり、無くなってみたり、無くなったと思ったら新しい突起が出てきたりしますね。
出典:神経細胞動態研究チーム
竹内 これはもう意思を持った生き物のような動きですね、完全に。軸索が方向を変えていく様子は実験ではどのように再現するんですか?
上口 まず、培養液の中にある培養した神経細胞の周辺に、細いガラス管を使って誘引性または反発性のガイダンス分子を注入するんです。例えば成長円錐の左側から誘引性の分子を少しずつ入れる場合、培養液は液体なので誘引性分子の濃度の勾配ができる。入れた場所の濃度が一番高くて、そこから離れるとどんどん薄くなりますが、その濃度が低くなる場所にちょうど成長円錐が来るようにしておく。もし成長円錐が注入したガイダンス分子を誘引性と読み取ると、濃度の高い方へ高い方へと曲がっていくんです。反対に反発性のガイダンス分子を同じように培養液に入れて濃度の勾配を作ると、成長円錐はそれを避けるように濃度の低い方へ低い方へと曲がっていくんです。
竹内 すごい、体内と同じことが再現できている。では軸索の先端が同じ分子を誘引性と読むのか、反発性と読むのかについても実験で再現できるんですか?
上口 はい、ちゃんと再現できます。ガラス皿の上で薬品を使用したり遺伝子を操作したりして軸索の状態を変えることができます。そうすると軸索の先端部は、もともと反発性と読んだ分子に対して今度は伸びて近づいていったりします。さらには軸索内の分子の働きを外からいろいろと改変することもできます。あらかじめ神経細胞のなかに光感受性の化合物を入れておき、ある特殊な波長の光を当てて化合物と反応させ、成長円錐のなかの分子の構造や機能を変える。つまり成長円錐のなかの状態を人工的に変えられるんですね。そうすると、曲がり方や伸び方が変わります。
竹内 軸索ガイダンスの研究は、すでにかなりツールがそろっているわけですね。
Profile
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今夜の研究者
上口 裕之(かみぐち ひろゆき)
理化学研究所 脳神経科学研究センターにて神経細胞動態研究チームを率いる。 埼玉県出身。慶應義塾大学医学部卒業、医学博士。脳外科医を経てアメリカで本格的に基礎研究を始める。帰国後、1999年から研究室を主宰。趣味は読書、旅行。
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Barのマスター
竹内 薫
猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
X(Twitter): @7takeuchi7
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Topイラスト
ツグヲ・ホン多(asterisk-agency)
編集協力