第九回 Joshua Johansen It's a Big, Wide, Wonderful World♪-旅に出て 広い世界で見つけた自分だけの道

第九回 Joshua Johansen
It's a Big, Wide, Wonderful World♪-旅に出て 広い世界で見つけた自分だけの道 後編

痛みの研究から情動が生み出す記憶の研究へ


竹内 今、研究されているのは情動と記憶についてですよね。どういった経緯で、痛みから情動や記憶へと研究対象が移っていったのでしょうか。


ジョハンセン 実際にはそれほど大きな違いはありません。不快で嫌な体験がどう行動を変化させるのかを理解するために、痛みの研究から情動記憶研究へ移りました。情動記憶の保存には扁桃体と呼ばれる脳の領域が重要です。例えば、あなたが森にいて枝がポキッと折れる音を聞いた直後にクマに襲われた、という状況を想像してください。次にハイキングに行った際に草むらからカサカサという音が聞こえると、情動記憶が呼び起こされて心拍数や血圧といった生き残るために必要なシステムが活性化し、いわゆる「逃走か、闘争か」の防御行動をとることになる。このような情動と結びついた記憶は、痛みをともなう経験をした場合にも生じます。そこで、はじめに取り組んでいた「痛みがどのように学習や行動の変化を引き起こすのか」という疑問について、扁桃体という脳領域で研究することができたわけです。原因となる回避すべき経験、例えば野生動物に襲われた場合の痛みが、どうやって扁桃体に生物学的な変化を引き起こし情動記憶を生み出すのかを解明することができました。


竹内 ずばり、情動と記憶の間にはどんな関係があるのでしょうか? 密接に関係しているのですか?


ジョハンセン 私たちは経験上、自分が記憶していることには情動的な要素がある、ということは分かっていますよね。人生ではたくさんのことを経験しますが、そのほとんどについては覚えていないものです。しかし、自分の子どもが生まれるといったような、何か素晴らしい経験は覚えていて記憶として長く保存されます。こういう記憶は、その時の感情も含めて思い出して想像することのできる意識的記憶です。つまり、感情、情動がそういった記憶を形作っているのです。これが記憶と情動のつながりの一つの側面です。


竹内 良い思い出ばかりではなく、感傷的であったり嫌な体験もしっかり記憶に残りますよね。



ジョハンセン 私は小さい頃に犬に襲われたことがあって、その時は心臓が高鳴り、息が上がり、汗びっしょりになりました。これらは交感神経系が活性化したサインです。今でも怖そうな犬を見ると、その時の記憶がこうした本能的な身体反応を引き起こします。これが情動記憶と呼ばれるものです。この記憶は無意識または暗黙の記憶の一種であり、意識的記憶と関連して働くことも、切り離されて働くこともあります。私たちの研究室では、こうした情動記憶が脳内でどのように形成されるのかを研究しています。


竹内 楽しくて幸せな思い出よりも恐怖や痛みをともなう記憶の方が、よりはっきりと思い出されるのはなぜでしょうか?


ジョハンセン 実際のところ、どちらも非常によく思い出せる記憶じゃないでしょうか。どちらの記憶がより強いのか、鮮明なのかははっきりと分かってはいません。


竹内 体験が情動的なものである限り情動記憶として覚えている、ということですね。


ジョハンセン 非常にトラウマ的な状況では記憶を喪失することはありますが、一般的にはその通りです。ごく普通の日に街を歩いている場合は、周りで起きていることをあまり覚えていないでしょう。でも、通りで誰かに襲われるような経験をした場合、側溝の水の音や道端に停まっていた赤いフォルクスワーゲンなどの詳細まで覚えているかもしれません。その体験についてのとてもはっきりとした記憶があるのではないでしょうか。



目指すはPTSD治療


竹内 嫌な記憶については特にそう思うのですが、自分の意志で記憶を積極的に忘れることはできるのでしょうか? つまり、意志によって記憶をコントロールすることは可能ですか?


ジョハンセン できたら本当に良いですよね。実際のところ、記憶を完全に消すことは難しいと思います。ただ、記憶の感情的な要素を変えることはできます。私たちが取り組んでいる研究の最終的な目標の一つは、たとえばトラウマ体験をした人たちの「心的外傷後ストレス障害」、いわゆるPTSDの症状を治療できるようにすることです。長期的なPTSD症状を示すケースでは、常にストレス状態が続いて、嫌な記憶に関係するような刺激に対して過剰に反応したりするだけでなく、トラウマとは関係のない音などの刺激によっても強い情動反応を引き起こされることがあります。このようなトラウマから引き起こされる過剰反応を軽減する方法を開発したいと考えています。


竹内 ジョッシュさんが大学へ編入する前にさまざまな仕事や経験を通して感じた「人々がより良く暮らしていくための手助けができるような仕事がしたい」という目標に、研究を介してちゃんと前進していることに、今とても感慨深く感じています。


ジョハンセン まだまだやるべきことはありますが、少しずつ実現しているのは嬉しいですね。


竹内 トラウマへの過剰反応による生きづらさを改善するための具体的な治療法は、現時点ではどのようなものがあるのですか?


ジョハンセン 最も効果的な治療法の一つは曝露療法または認知行動療法と呼ばれるもので、もともとのトラウマ体験の環境にその人を再びさらす方法です。荒療治に聞こえますが、同じ環境に置かれても嫌な体験は伴わないことを繰り返し体験することで、その経験に対する脳内の記憶の枠組みをより安心な状況下で作り直すことで嫌悪感を軽減させようとするアプローチです。忘れるというより、新しい記憶を作り直すのです。脳メカニズムの理解を深めて、このような治療法の効果を増強するような薬を開発したいですね。


竹内 PTSDに関する脳内メカニズムが分かれば、そこに働きかける薬も作れるというわけですね。


ジョハンセン その通りです。今お話した認知行動療法は、嫌な経験の記憶を消し去るのではなく抑え込むだけです。この効果は日常の何かのきっかけで戻って来てしまう可能性がある。トラウマ体験の記憶が軽減される脳メカニズムを理解し、こうした治療法の効果を増強できればトラウマの影響をより効果的に、より長期的に軽減することができるかもしれません。一方、記憶の再統合と呼ばれる非常に興味深い現象にも注目しています。もともと1960~70年代に発見された現象で、当時は科学的裏付けが十分ではなかったのですが、2000年になって特定の記憶を思い出すという行為にはもとの記憶を保存した際に働いた分子生物学的メカニズムが関与していることが明らかになり、再び注目されています。私たちの研究室では、脳幹のノルアドレナリン系が不快な記憶を再固定する役割を担っていることを突き止め、これらの記憶を保存する特定の細胞で、ノルアドレナリンが作用する主な分子メカニズムを見つけました。


竹内 それはすごい!


ジョハンセン これも私たちが取り組んでいる課題の一つなんです。特定の細胞タイプで記憶の再統合メカニズムをブロックすることで、嫌な記憶を生理学的に消すことができないかと。


竹内 なるほど、非常に面白そうですね、この記憶の再統合というメカニズムは。



ジョハンセン 記憶に関して考えてみれば、たとえ同じことを経験しても、人は違った形で記憶していたり再編集していたりするものですよね。これについては、有名な黒澤明の映画『羅生門』が良い例かもしれません。ある武士が殺されたという一つの事実について、武士の妻、悪名高い盗賊の多襄丸、一部始終を見ていた目撃者など、同じ現場にいたはずの複数の人物たちが、裁きの場ではそれぞれに違った証言をする。あれは象徴的な場面です。


竹内 そうでしたね。それぞれが都合の良いように証言をしているというか、その時の記憶を自分の感情を混ぜて編集し直し、再統合して証言しているように思います。同じ物語をそれぞれの登場人物の視点で描くストーリーテリングの手法は、この羅生門以降多く採用されていますし、それはつまりわれわれ人間が外の世界を見て、体験し、解釈し、思い出す、その一連の行為の元となる記憶が個々人で全く異なるというのは、自然だということなんですね。


ジョハンセン それが記憶というものの重要な特徴です。記憶は絶対的なものではなく、「経験に対する人それぞれの相対的な認識の記録」といった感じでしょうか。記憶の再統合メカニズムの一つとして、ある記憶を思い出す際に、その記憶に新しい要素を取り入れているのではないか、という説が提唱されています。つまりその後の経験によって記憶は変わりうるし、だから同じ経験でも人によってそれぞれに違う記憶となるのかもしれません。


脳と感情の解明が人間を真に理解することへつながる


竹内 ジョッシュさんが研究人生を賭けて答えを知りたい、脳に関する最大の課題とは何だと思われますか?



ジョハンセン そうですね、動物研究をヒトの脳の理解につながるレベルにもっていきたい、ということでしょうか。より複雑な情動の機構を理解したい。少し専門的に言うと、私たち人間の「気持ち」とか「感情」といったより高次元の情動が大脳皮質内でどのように表象されるのか、また大脳皮質のシステムと進化的に保存された皮質下のシステムがどのように相互作用し、情動的な身体反応や行動につながるのかを理解したい。今までの動物モデルでの研究は、恐怖に身体がすくむ、といった単純な情動反応に焦点を当ててきましたが、次の段階へ進めより複雑でより定性的な感情とその脳メカニズムの理解に挑戦することです。


竹内 究極的には人間における感情と脳のメカニズムを解明していく、動物モデルから人間というレベルに引き上げて行くのですね。


ジョハンセン 野心的な目標ですが、そこを目指さないといけません。私たちの感情は、どう世界を解釈しているのか、つまり心理学的とも生物学的ともいえる側面からも生まれてきます。こうした仕組みを神経科学的に理解することが、トラウマや不安障害に苦しむ患者さんの治療法の選択肢を広げ、生きやすくするための第一歩になると考えています。それに、感情について考えるってとにかく魅力的じゃないですか! われわれの豊かな感情を生み出す脳のシステムを知ることは素晴らしい。私たちの人生の大半の体験には感情が関わっていますよね。その脳のプロセスを理解することができれば、私たち人間とは何者なのかを真に理解することができる。研究者としてもっとも魅力を感じるのはここなのです。


良いサイエンスをして、良い研究者になるために


竹内 アメリカから住まいを移して日本での生活、楽しんでいますか?


ジョハンセン はい、日本での生活は全体的にとても気に入っていていますよ。研究者として働きはじめる前も、ノマド的なライフスタイルだったので、今まで一か所にこれほど長く住むということはありませんでした。今は仕事も住まいもここが「自分の家」だと思えています。仕事を通じて、そして趣味のサイクリングや子どもたちの学校を通じて、友だちをたくさん作ることができました。


竹内 生活と研究の拠点がついにできた、ということですね。



ジョハンセン そうですね。拠点を持てた今だからこそ強く感じるのは、サイエンスはあくまでもグローバルな探求であるということです。世界中にいる研究者同士で議論し、時間をかけて精錬することでサイエンスは前進する。良いサイエンスを行うには国際的な科学コミュニティとの交流が大切です。もしあなたの研究成果が重要であれば、こうしたグローバルな関係を通じて共有され、世界に良い影響を与えることができる。これこそがサイエンスが生まれ、発展していく方法なのだと思います。もしこうした議論ができなくなってしまったら、サイエンスは後退してしまいます。コロナウィルスのパンデミック前は、実際に会って議論をすることで研究者同士は繋がっていました。コロナ禍の困難な数年間を経て、その大切さを改めて深く感じました。今、世界が再び開放され、皆と再び会話を始められたことが楽しいですね。


竹内 ジョッシュさんの考える優れた研究者とは?


ジョハンセン 厳密さと正直さに加えて、独創的な思考力と創造性……たくさんのポイントを挙げることができますが、私はそれらを組み合わせたものだと思います。過去の実験の細部をみて次のステップを考え、新しい領域に目を向けて未開拓の分野に可能性を見出すことができる人。すぐれたストーリーテラーにして、そのストーリーをきちんと伝えることのできるコミュニケーターであること。新しい知見を解釈してその重要性を理解するとともに、新しい方向性を示すデータの意義を見出す能力を持つ人。少し矛盾して聞こえるかもしれませんが、素晴らしい研究者は、細部へのこだわりと、広く自由な想像力の両方を兼ね備えていなくてはならないと思います。


竹内 その二つのクオリティを高めていくには、何が最も重要だと思いますか? 好奇心のままに研究を行う自由、予算、十分な設備……?


ジョハンセン すべて、でしょうか。ちょっとしたストレスも役に立つと思います(笑)。もちろん、ストレスを好きな人はいませんが、例えば研究助成金の申請、出版社への論文投稿、学会での発表、査読を受けて厳しいフィードバックを受けたりする状況は、実は役に立つんです。自己満足になりすぎたり、高いレベルを目指して自分を追い込まず成果が出せなかったりすると、仕事は行き詰まる。ストレスのある環境は自分の成長を促してくれるので、ちょっと変かもしれませんが、それを段々とありがたいとさえ思い始めるわけです。


竹内 ジョッシュさんはまだまだ若手の研究チームリーダーだと思いますが、研究者というキャリアに興味のある若い人たちへ何かアドバイスはありますか?



ジョハンセン これは自分自身の経験に基づいてのアドバイスなのですが、成功や充足感を得るための方法はさまざまなので、慌てずに時間をかけて考えたり体験したりする余裕を持つことが大切だと思います。今やっていることからちょっと離れてみて、違った仕事をしてみるのも良いですね。もし研究を職業にしたいのであれば、高校や大学のラボでボランティア活動をして、現場での経験を得ることも良いと思います。サイエンスには強い情熱とモチベーションがないといけない。それなしではどんなに頭が良くても成功しません。そして研究以外の趣味や楽しみもちゃんと持つこと。趣味や楽しみは、自分自身についてもんもんと考えすぎてしまうのを防いでくれますし、ストレスなどから回復する助けになるだけでなく、自分の研究と創造性を向上させてくれますよ。


竹内 特に若い人たちには遠回りにも感じる研究そのもの以外の経験は、いつか研究者として何か大きな壁にぶつかったときなどに役に立つものですか?


ジョハンセン もちろん! 多くの経験を積んで、いろいろなタイプの人たちと関りを持つことで、広い価値観や考え方に触れることができる。人生にはさまざまな道があることがイメージできて、最終的に進むべき道を選ぶときに、自分自身の判断に深い確信を与えてくれるのです。




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Profile

  • 今夜の研究者

    Joshua Johansen(ジョシュア ジョハンセン)
    理化学研究所 脳神経科学研究センターにて学習・記憶神経回路研究チームを率いる。
    米国カリフォルニア州出身。UCLAにて博士号取得。
    NYUでのポスドク研究員を経て、2011年より理研にて研究室を主宰。カリフォルニア州サンディエゴでサーフィン、コロラド州でスキー、現在はサイクリングにはまり瀬戸内しまなみ海道も訪れた。バックパッキングで世界を旅し、日本では家族との旅行を楽しんでいる。
    Twitter: @JoJoLab5

  • Barのマスター

    竹内 薫
    猫好きサイエンス作家。理学博士。科学評論、エッセイ、書評、テレビ・ラジオ出演、講演などを精力的にこなす。AI時代を生き抜くための教育を実践する、YESインターナショナルスクール校長。
    Twitter: @7takeuchi7


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