脳と時空間のつながり vol.4

私たちは時間をどう認識しているのか

じつは、海馬の中で場所細胞が作られる法則や規則性については、よく分かっていません。それでもノーベル賞をもらってしまったところが、この発見のすごさを物語っているとも言えるでしょう。

私たちの実験結果によると、動物にいくつかの刺激(イベント)を与えたときの海馬から、バックグラウンドの波の上に、刺激を与えた順序で反応している、と解釈できる計測データを得ています。おそらく、少なくとも海馬を用いるエピソード記憶のシステムは、場所細胞と同じ方式が採用されているのでしょう。このアイデアを進めていくと、ニューロンの発火する順序性が、短期間の時間感覚そのものではないか、という予想に至ります。

少なくとも場所細胞のリプレイのときに見られる圧縮表現は、ラットの空間認識システムとエピソード記憶に、システムとして近いものがあることを予想させます。

たとえばエピソード記憶には、物の認識が不可欠です。物を思い出すということは、それにまつわるエピソードも付随して思い出すでしょう。これは、まさに回顧です。一方、空間を認識するということは、地図の座標のような位置情報に加えて、目印としての「物」を認識しているということでもあります。したがって空間の連続と順序を圧縮したニューロンの活動があるということは、まさに「物」の変化を認識できる可能性も示しています。

このことから、関連する物事を記憶するニューロン群は、場所細胞の圧縮表現のように発火して、一つのエピソード記憶を形成しているのではないでしょうか。エピソード記憶に関係するような脳の情報処理システム全般が、空間認知と同じようなシステムで動いていると考えられます。つまり、脳における空間性と時間性は、経験に関係する記憶のシステムを中心にして、ある程度近いだろうと思うのです。

ようするに、脳内で表現される時間の基礎は、空間を占める物の変化や自分の知っている情報の順序なのでしょう。むしろ、この時間感覚(順序性の記憶)の中に、空間の把握やエピソード記憶も含まれるのではないでしょうか。

また、私たちが時間と聞いたときにまず思い浮かべるものは、決まったタイミングで時を刻む時計ではないかと思いますが、脳の中には、そうした時計と同じ機能を持った部位もあります。

たとえば、動物が30秒に1回レバーを押せばエサをもらえるような実験では、脳の奥にある線条体(せんじょうたい)のニューロンに、時間の経過とともに発火率が増えていく現象(ランピング)が観察されます。脳内の時間表現には、そうした方法もあるのです。これは海馬とはまったく違う神経回路ですね。もちろん、時間の長さと経験の順序を認識する神経回路と別ではあっても、おそらく神経回路間で相互作用しあっていることは間違いないでしょう。

トム・クルーズ細胞

人間の生活している世界は限りなく広いですが、場所細胞は、どこまで世界をカバーできるのでしょうか。これは場所細胞の話に限りません。限られた数のニューロンで、脳は、あらゆる情報を記憶し、判断しています。そうした不思議な話を最後に紹介しましょう。

なんと、人間の海馬から「トム・クルーズ細胞」というニューロンが見つかりました。もちろんトム・クルーズはアメリカの俳優ですが、彼が神経科学の研究をしたわけではありません。てんかんの治療目的で電極を刺した患者さんにさまざまな画像を見せたとき、たまたまトム・クルーズにだけ発火する細胞が見つかったのです。

おもしろいことに、このトム・クルーズ細胞は、正面の写真でも、横顔でも、何と文字情報でも、トム・クルーズを示す情報にならすべて反応したのです。アニメのキャラクターや女優さんの顔では、その細胞は発火しませんでした。さらにおもしろいことに、一連の画像を見せたあと、この患者さんに口頭で「誰を見ましたか?」と質問します。すると、一連の画像について思い出す中で「トム・クルーズがいました」と答えるときに、先ほどの細胞が発火したのです。

つまり、頭の中でトム・クルーズを思い出しているときにさえこの細胞は発火するのです。どうやら人間の海馬には、あらゆる語彙に関して、情報を統合するようなニューロンがあるようです。たとえば「安倍晋三細胞」や「講談社ブルーバックス細胞」など、人によってさまざまなものに反応する細胞があることでしょう。

誤解の無いようにしてほしいのですが、トム・クルーズ細胞は、たった1個のニューロンではないはずです。動物実験では多くの電極を刺すことができますが、人間では実験の制約上、ニューロン1個分の信号を解析しているだけなのです。動物実験での結果を援用すれば、おそらく複数個のニューロンが作る神経回路がネットワークレベルで、そうした情報をコード(符号化)していると考えられます。しかし今のところ、そうした神経回路の詳細は、まだまだ不明です。

神経生理学者の究極の目標

場所細胞の話を中心に、記憶と時空間認識のシステムの巧妙さと不思議さが、いくらかでも伝わったでしょうか? 人間にとって、自分が経験したことを記憶しているエピソード記憶というのは、脳の理解を考えるうえで非常に重要だと思います。私たちは、そのメカニズムをニューロンのレベルで知りたいと考えています。そして、ニューロン同士の相互作用や活動の順序などに注目して、神経回路の中で、どのように経験という時間の情報が表現されていて、どのように利用されているのかを解明したいのです。

脳の機能を解明するための研究で一番おもしろいのは、実際に大量のニューロン活動を記録しながら、行動とリンクさせて解析することであり、どのように脳が動いているかということをリアルタイムで知ることが重要だと考えています。本章の冒頭で述べたように、神経生理学者の究極の目標である「脳にあるすべてのニューロン活動を検出し、分析すること」ができれば、そうした謎は解けるはずです。

著者:藤澤茂義 時空間認知神経生理学研究チーム チームリーダー

出典:講談社ブルーバックス



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